あの祠を壊したんか 5
「⋯⋯とは言ったけどさ、俺たち、別に元に戻らなくていいんじゃないか?」
俺たちは放課後に山道を歩いていた。矛良が父親の送迎を断ったのだ。矛良の家から俺の家までの長い長いアスファルト。振り向けば、夕陽が照らす田畑を一望できた。
淡々と響く足音。矛良は一切の辛さを感じさせずに歩いている。
「僕も、今の暮らしに満足してるよ。
でも入れ替わったままで今後どんな影響があるかは分からない。やっぱり元に戻るべきじゃないかな」
「そうだよな⋯⋯」
俺たちは歩いた。歩いて歩いて、そのうちアスファルトが途切れて土になった。木々の間を抜けると、見慣れた家があった。その頃には、足が棒になっていた。
森家を見るのは久しぶりだった。苔谷家の文明的な建築を見た後だと、あまりにもボロくて笑ってしまいそうになる。
もうすぐ夏になる。エアコンすらもないこの家で過ごすのはまぁ地獄だ。山の上だからある程度は気温が下がるが、それにしてもヤバい。ほんとに。
そんなボロ家を素通りし、裏手を上っていく。
いつもブルーシートを敷いて遊んでいた場所を横目に、さらに上る。
上って上って、登って登って、その先には、あの日となんら変わりない、崩れた石材が待ち受けていた。その破片の一つ一つが、俺を睨んでいるように感じた。うるさい。お前が説教垂れてきたからだろうが。
祠は完全に石材のみでできており、俺が押しただけで崩れたことからも、そう重くないことはわかっていた。つくりもシンプルで、部品を整頓して並べたら完成系がイメージできた。そこらへんのプラモデルよりもシンプルだろう。
手分けして、土台に一つ一つ部品を置いていく。思っていた何倍もスムーズに進んだ。雑談なんかもしながら、まるでテントでも建てるかのような、整った段取り。
──そしてついに、部品は最後の一つになった。
屋根の頂点。上方向に出っ張った装飾。これを軽く乗せるだけで、俺たちの肉体は元通りになるはずだ。
身体も、生活も、家族も⋯⋯。全部元に戻ってしまう。
⋯⋯ふと、手が止まった。
「ごめん、やっぱ、ダメだ」
「⋯⋯え?」
頭の中はほとんど真っ白になっていた。
あんなにも快適な生活が。
夢にまで見た綺麗な家や空調が。
やっと手に入ったというのに、俺はそれを手放してしまうのか?
土石流のように坂道を駆け下りる。木の枝が肌を切る。それでも俺の動きは止まらなかった。茂みを突っ切り、むき出しの岩を踏み越える。その様はもはや自由落下に近かった。
服のあちこちに汚れが付着し、坂を下りきるころには、俺の服は枝の先で切り裂かれ、戦争帰りみたいにボロボロになっていた。幸い大きな怪我こそなかったが、節々が痛んでいる。
道中、上方からは矛良の足音がかろうじて聞こえてきていた。だけど俺の無鉄砲な走りに追いつけるはずもなく、今となっては視界に映らないほどの距離が空いていた。
眼前には、いつものボロい家。
⋯⋯なぜだろう。一応自分は普通の小学生で、三日間は家に帰らなかったんだ。普通ならホームシックになるはずなのに、一切の悲しみを感じない。
立ち去ろうとしたその時、裏口の扉がきしむ音が聞こえてきた。俺は思わず立ち止まる。
「⋯⋯⋯⋯矛良さん?」
出てきたのは生太だった。不安そうな瞳で俺の顔を見上げている。
「きょう、平日なのに⋯⋯」
「あぁ、いや、遊びに来ただけだよ」
「なんでそんなボロボロなの?」
「ちょっとコケちゃってね。全然平気だよ」
久しぶりに弟と会話したというのに、普通に演技できてしまう。俺はそんなに、冷たい人間だったのか。鬱屈とした気分になった俺に、生太が言う。
「あのね、最近、お兄ちゃんが変なんだよ⋯⋯」
「変って⋯⋯どういう感じで?」
「お手伝いとか、すごく元気にやるの。今まで嫌がってたのに」
あの野郎。演技とか考えないのか。そういえば、学校でも遠慮なく手挙げてたっけ。それにしてもあのクソ労働を喜ぶだなんて、本当に変わったやつだ。
「まぁ、いいんじゃないの? 楽しめてるならさ」
生太は黙った。身体は震え、地面をじっと見ている。
どうしたんだ、と声をかけようとしたが、それが矛良の口調ではないことに気づいて思いとどまった。そして俺は「どうしたの?」と口にした。
「いやだよ。あんなの、兄ちゃんじゃない⋯⋯!」
ぐっと我慢しているように見えるが、ほとんど泣き顔だった。きっと今まで、誰にも相談できずにここまで過ごしてきたのだろう。別人と化した俺と、一緒に遊んで、一緒に手伝って、一緒に寝て、その間ずっと怖かったんだろう。なにせ、演技をする素振り一つ見せない、あの矛良が入っているのだから⋯⋯。
──俺は大馬鹿野郎だった。そんなことを想像すらできない。弟の恐怖に、気づくことすらできなかった。
でも俺は、あの生活が嫌いだ。絶対に嫌いだ。きっと今後も好きになることはない。
嫌いだけど、こんなものを見せられてしまったら。
「⋯⋯ちょっと待ってろ。あいつを元に戻してくる」
愛着なんて一ミリもない。このまま矛良の人生を謳歌してやりたい。だけどもしも元の身体に戻らなかったら、俺の顔をしたあいつを見て震える生太の姿が、網膜にこびりついて離れないだろう。
クソ。面倒だ。面倒で面倒で仕方がない人生。
⋯⋯それが俺なのかもしれない。
俺は悩み諦めて山を登った。
──二日後。
「いや、ほんとごめんごめん。演技とか忘れちゃうんだよね」
矛良の身体に入った矛良が、半笑いでそんなことを言った。
教室の窓からは、校庭で遊んでいるみんなが見えた。隅の鉄棒エリアにいる髪の長い女子は、霊禍だろうか。
「あれからどう? 僕は特に不満はないけど」
「⋯⋯最悪だよ。入れ替わったままならよかったのに」
「アハハ、正直だね」
矛良は廊下に出て、学校から配布されたタブレットを取ってきた。
「それでね、まぁ生太くんを怖がらせてしまったわけで、お詫びとしてちょっといろいろ調べてみたんだ」
「⋯⋯?」
画面が光る。そこに映されていたのは、隣町の高校のホームページだった。
「公立だけど、寮がある高校なんだって。まだ四年あるけど⋯⋯ここに行けば、早いうちにあの家から出られるかもよ?」
⋯⋯その発想はなかった。というか、俺はあの家から出たいという割にはなにも調べたりしてこなかったな。こればっかりは反省しなければならない。
「ありがとう。これなら確かに⋯⋯イケるかもしれない」
「うん。ちょっと勉強しなきゃだけど、頑張ってね」
「⋯⋯お前も来いよ」
自分の口からこんな言葉が出るのが不思議だった。だけど言ってしまったものは仕方がない。矛良は机にもたれかかり、しばらく悩む素振りを見せた。
「まぁ、どうしてもって言うなら、いいよ」
その返事の軽さが可笑しかった。




