プロローグ/沈黙の三年間 12
墓山花崗の膝は震えていた。先ほど壁に打ち付けられた衝撃で、下半身の骨が歪んでしまっているようだった。
「なんだかよくわからないけど⋯⋯」
花崗の声は想像以上に掠れていて、聞き取るのがやっとのほどだった。
「私が亘の代わりに死ねばいいのか?」
しかしどんなに掠れた声でも、その奥に潜む覚悟の固さだけは、その場にいる全員に伝わっていた。
──それほどまでに、芯の通った響きだった。
「えぇ。ボクとしてはどちらでも構いませんけどね」
メフィストの返答は、人の命がかかっているとは思えないほどに軽やかだった。
花崗は歪んだ骨盤で体重を支えきれなくなり、その場に力なく倒れ込んだ。
「奪うなら、私から⋯⋯」
「ダメだ!」
七年ぶりの大声をあげて、亘が割り込む。
「母さんだけは⋯⋯死んじゃだめだ⋯⋯」
花崗は亘の言葉を遮ろうと、必死に声を出そうとした。しかし擦り切れた喉では、亘の声量をかき消すことはできなかった。
「僕の人生には何もなかった⋯⋯思い出のほとんどは家族と同じ空間で過ごした時間なんだ。だから僕は、もしも死ぬなら家族のために死のうって、ずっと考えていた」
このままでは、亘は死んでしまう。花崗はそう直感し、亘を止めようと必死でもがいた。しかし地面を這うこともままならず、喉から放たれた音は、あまりにも弱く、曖昧だった。
亘は母の眼前にしゃがみ、手を握った。
「最後くらい、親孝行させてもらうよ」
その手の震えは、花崗にも伝わっていた。
強く握りしめられた腕を振り払って亘は立ち上がり、メフィストの方へ歩いていく。
「本当にいいのかい?」と、その悪魔は笑った。
「あぁ」
と亘が答えようとした瞬間、眼前に何かが飛来した。
──それは、拳だった。
幽ヶ崎霊禍の、小さくも力強い拳。それを認識する暇もなく、亘の顔面に鋭い激痛が走り、床に倒れた。
「嘘をつくな!」
霊禍の拳には僅かな熱が込められていた。不死鳥の炎の、神秘的な熱だった。
「死のうと思ったとか、何もない人生だったとか、くだらない嘘で自分を守ってんじゃねぇ!」
亘は動かなかった。
「本当はお前、どう思ってるんだ!」
そう問われ、亘の頭は再び働き始めた。
脳震盪と痛みの余韻に邪魔されて、霊禍の声の半分も聞き取れなかったが、不思議と何を求められているのかは理解できた。
奇妙なことに、拳の熱が頭を冷やしたのだ。
「僕は⋯⋯」
「まだ⋯⋯生きていたい⋯⋯」
そこには涙も、震えもなかった。
「そういうことでいいなら、そうさせてもらうよ」
メフィストは容赦なく告げた。
花崗の肉体が軽くなっていく。三秒ほどで、ちょうど地面を這っていけるくらいの軽さになった。
激しい脳震盪で身動きが取れなくなった亘に、花崗はにじり寄る。
亘の顔を、上から見下ろす。
幼い頃の面影が残りつつも、根底に優しさと強かさを感じさせる顔。
私の、たった一人の息子。
涙がこぼれ、亘の顔に落ちる。
「母さん」
亘は真っ直ぐ母の目を見た。
「一緒にいたときは、ずっと楽しかったよ」
そうか。
そうなら、よかった。
花崗の口が開く。その声は薄く、もはや言葉にすらなっていなかった。
言葉未満の空気の波は、亘の耳に届かないまま消滅した。
それでも亘には充分だった。
その掠れた音を最後に遺して、墓山花崗はこの世界から消えた。




