プロローグ/沈黙の三年間 10
メフィストは当たり前かのようにそこに立ち、亘を見下ろしている。
花崗は声も出せず、目を見開いてメフィストを直視していた。亘が初めてメフィストに会ったときのように、その圧倒的な完全さに畏怖している様子だ。
亘の汗が引き、血色のいい顔にたちまち戻っていく。痛みはすでにほとんど消え失せ、視界も通常通りになっている。それでも震えだけが収まらないのは、悪魔に再び相対した恐怖のせいだ。
「ごめんごめん、驚かせてしまったよね」
メフィストの声は当たり前のように発せられた。
「なぜ⋯⋯」
立ち上がりながら亘は問う。
「なぜ母さんに怪我をさせた⋯⋯
これは僕とあなただけの問題だったはずだ⋯⋯」
「おおっ。カッコいいな。霊能力を抜きにしても亘クンは希少な人間だね。こんな状況で他人を心配できるだなんてさ。でも、いま聞くべきなのはキミが死にかけている原因じゃないかな?」
「あなたの契約に裏があるのには薄々気づいていました。認めたくなかったですけど」
亘がメフィストと向き合うのは二度目。人間が持つ適応能力の賜物か、亘の話し方から緊張やぎこちなさの類のものはほとんど見られなかった。無論のこと、手の震えだけはどうしても止まらなかったが。
「裏というか⋯⋯単純な伝達ミスだよ」
その顔から真偽を読み取るのは不可能だった。
「霊能力を失った人間は、約一週間後に死亡する。それだけのことを、ボクは伝え忘れていた。というより、もう知っているものだと思っていた。本当に申し訳ないよ」
およそ申し訳なさなど込められていなさそうな、淡々とした声色でメフィストはそう告げた。
「そこで、だ」
発言の途中で花崗がメフィストに駆け寄った。両手で椅子を持ち上げ、振り下ろす。だがその一撃はメフィストの肉体を覆う反重力フィールドに阻まれ、弾き飛ばされた。
「せめてキミの死因くらいは、言ってあげようかなと思ってね。」
亘の脳内には、もはや失望などの感情はなかった。
あるのは単なる、諦念だった。
この言葉が真意であろうとなかろうと、もはやこの悪魔に常識など通用しないのだという、強制的な納得感。
死ぬこと自体に恐怖はあった。だけどそれ以上に、倒れている母のことが、亘には気がかりだった。後頭部から血が流れ、脱力したまま壁にもたれかかって気絶している母の姿は、見るに堪えなかった。
「だったらせめて⋯⋯母さんは助けてほしい。せっかく生き返ったのに、あの様子じゃあ少なくとも後遺症は残る」
「そうは言ってもね⋯⋯生き返らせることは契約条件だけど、生き永らえさせることは条件じゃないしねぇ」
「だったら⋯⋯
だったら僕の残り僅かな命だって捧げ⋯⋯」
そう、言いかけた。刹那。
背後の窓が割れる音がした。
何かが高速で飛来し、その風圧に亘は身をよじる。
亘の言葉は遮られ、我に返った時には、目の前に一人の少女が立っていた。
紫炎を纏い、右手に刀を携えた幽ケ崎霊禍が、そこに立っていた。




