プロローグ/沈黙の三年間 7
亘の母、墓山花崗は、今までとなんら変わらない様子でキッチンに立っていた。
春先の早朝。まだ薄暗い室内。調理場の照明だけが煌々と輝き、スポットライトのようにその姿を照らしている。
花崗は亘の涙に気づくと、慌てた様子で近づいた。
「なに泣いてんの〜。怖い夢でも見た?」
亘がそんなガラじゃないと分かっていながらも、花崗はそう言って笑った。
亘は恥を感じながらもひとしきり涙を流した。なぜ自分が泣いているのか、説明することはできなかったし、咄嗟の嘘も思い浮かばなかった。
しかし、花崗は説明を求めなかった。
我が子の涙を見た親ができることなどそう多くないのだと、花崗は理解していた。それは十年間の育児経験から導き出された、彼女なりの確信だった。
花崗は床に膝をつき、亘を抱きしめた。
「好きなだけ泣きなよ」と優しい響きが肌寒い空気を伝う。
長い時間が、一瞬にして過ぎていく。
嗚咽がゆるやかに終わりを迎えると、墓山家の時間は、残り短い春休みへと入っていった。
それからの春は幸せだった。
隣町のショッピングモールに行った。
ちょっと高い焼き肉屋に行った。
家族三人で徹夜で桃鉄をやった(父だけ途中で寝た)。
何をしても、グレイヴのうるさい叫び声は聞こえてこない。
目の前にいる生きた人間と、一対一で会話できる。美しい風の音を遮られずに堪能できる。それはまさに、亘が望んでいた人生だった。
そんな毎日を過ごしているうちに、母の死や悪魔との遭遇、さらにグレイヴがいた日々すらも、長い長い悪夢だったかのように錯覚するようになった。
思えば、これまでの日々が馬鹿げすぎていたのだ。
なにが守護霊だ。なにが悪魔だ。まして母がなんの前兆もなく倒れてそのまま死ぬなんて、ご都合主義のフィクションみたいに要素が盛り込まれた人生だった。
今いるこの家庭が、本当の自分の人生の舞台だったんだ。亘はそう確信した。
春休みの終わり。
小学四年生になった亘は、始業式の日にも今までと変わらない様子で座っていた。
グレイヴが消えてから、家族間では僅かながらに亘の口数は増えていた。しかし学校では、いきなりベラベラと喋りだすことはなかった。
よってクラスメイトたちも、今まで通り、亘に対しては無視するでもハブるでもない、絶妙な距離感を保っていた。
机一つ分の間隔を空けて級友たちが話す内容が、亘の耳に届く。
「転校生が来るらしい」
それは、亘の人生を変える重大な出会いの予兆だった。




