38●勢力の衝突
百川グループ本社ビル、二十三階の会議室。
千奈がソファから勢いよく立ち上がった。「あたしは戻る。あたしの仲間がまだ猫カフェの中にいるんだ」
百川は顔を上げず、指先はまだキーボードの上で何かを打ち続けている。「お前は行くな」
「あんたの許可を求めてるんじゃない」
百川はようやく手を止め、その目は静かで冷たかった。「今あの城区がどうなってるか、お前自身が一番よくわかってるはずだ。東カーネルハイトの人間ですら、入るには相応の覚悟が要る。B級の高温再塑のお前が行って何ができる? 感染者たちの標的になるだけか? それとも救助隊の足手まといになるだけか?」
「じゃあどうしろって言うんだ? あいつらを猫カフェで死なせるのか?」
「英雄協会の電磁パルス除去法が効果を発揮するのを待つ」百川は背もたれに凭れかかった。「ディカノの残留光粒子さえ除去できれば、城内の感染は徐々に沈静化する」
そばにいた灰も口を挟んだ。「数年前に我々は既にテスト済みだ。電磁パルスは遊離状態の光粒子に対して、高い隔離効果を持つ。城内で大規模な暴動さえ起きなければ、除去作業に大きな支障は出ない。お前の友人たちが適切な防護措置を取っていれば、ディカノ危機が終わるまで持ちこたえられるはずだ」
千奈は黙って立ち尽くし、窓の外の、漆黒に沈むもう一つの城区の方角をじっと見つめていた。
百川は、超能学院の暴動を制圧して戻ってきたクリーフ小隊の面々に目をやり、人数を数えた。「小隊が一人足りないな」
「芯が偵察任務に出ている」灰の語調は淡々としていた。「依頼外の内容については、話せない」
百川はすぐに察した。リン・ユエチュアンの監視に派遣したのだ。つい先ほどまで何の動きもなかった英雄候補生が、正式な英雄と真っ向から渡り合う実力を見せた以上、多方面の勢力が関心を示すのは当然だった。
彼がそれ以上考えを巡らせる前に、灰の腰元のトランシーバーが短く鳴った。灰は百川を一目見てから席を立ち、会議室を出て、ドアを後ろ手に閉めた。
廊下は静かだった。灰は通話ボタンを押し、声を潜めた。「話せ」
トランシーバーから芯の声が聞こえる。「隊長。病院付近で別の監視者を発見しました。一人ではありません。応援をもう一人、送ってもらえますか」
灰は二秒、沈黙した。「何者だ?」
「男と女の二人組です。病院の屋上に潜んでいます。フェルガインのやり方とは違う。おそらくシュヴァルツェンの連中です」
「わかった。座標を送れ。すぐに人員を向かわせる。その監視者たちが不審な動きを見せた場合、抹消を許可する」
「了解」
芯はトランシーバーをしまい、再び双眼鏡を構えた。
彼女が身を潜めている場所は、病院の向かいにある廃オフィスビルの九階、窓ガラスのない窓穴の中へと移っていた。視界は開け、十分に身を隠せる。真正面にはリン・ユエチュアンの観察室の窓があり、彼女の角度からは、部屋の中から漏れる明かりと、カーテンの向こうで揺れるぼやけた人影がはっきりと見える。
芯は焦点を調整し、レンズを屋上へと向けた。
やはり、男と女が一人ずつ、屋上の縁にしゃがみ込んでいる。男は痩せ型で、両手をポケットに突っ込み、姿勢はだらりとしている。女は長い髪で、体つきは華奢だった。夜風が彼女の髪先をそっと持ち上げている。二人とも目立った装備は身につけておらず、極めて気ままで、自然体に見える。
シュヴァルツェンの人間だ、と芯は判断した。フェルガインに、こういう張り込み監視の細かい仕事はできない。彼らの流儀は、直接相手先に乗り込んで条件を提示するか、直接抹消するかだ。シュヴァルツェンは常に極秘任務を遂行しており、人員拡充のためには、特殊な能力を持つ“野生”の超能力者を精確にスカウトすることで知られている。その動きは時に、東カーネルハイトよりも速いことすらある。
芯が次の手を考えていると、レンズの中の二人がほぼ同時に顔をこちらへ向け、その視線が精確に彼女の方角を射抜いた。
気づかれた。
芯は即座に身を低くし、双眼鏡をバックパックに押し込み、身を翻して階段口へと退いた。
だが、二歩踏み出したところで、背後から極めて軽い音がした。
芯が勢いよく振り返る。
さっきまで向かいの屋上にいたはずの一組の男女が、既に彼女の三メートル手前に立っていた。
若い男が先に口を開いた。その語調は気安げだった。「東カーネルハイトか? それともフェルガインか?」
女の視線は芯の顔から、彼女のバックパックのサイドポケットにある小型の徽章へと流れた。彼女の口元が微かに持ち上がる。「東カーネルハイトよ。この徽章、見たことある」
芯は手を腰の後ろへと伸ばした。
「落ち着けよ」男は両手を上げた。「俺たちはただ興味があるだけだ。お前もあの特聘指導員を見張ってるのか?」
「あんたたち、何が目的だ」
「シュヴァルツェン、知ってるだろ? 組織はあの男の能力に興味がある。協力の話をしたいんだ」男は笑った。「だが、興味を持ってるのはどうやらウチだけじゃなさそうだな」
「彼は今、東カーネルハイトのターゲットだ」芯の声が冷たくなった。「シュヴァルツェンは、手を引いたほうがいい」
「東カーネルハイトのターゲットねぇ?」男は女と顔を見合わせ、同時に笑った。「その言い方、まるで東カーネルハイトがもう彼を囲い込んだみたいじゃないか。あの男の身には、東カーネルハイトの標章なんてどこにもないぜ」
「話すことは何もない」
男はため息をつき、隣の女に顔を向けた。「萦、このお嬢さん、あんまり協力的じゃないみたいだ」
「萦」と呼ばれた女が一歩前に出た。彼女はにっこりと笑い、その声は甘く柔らかかった。「それなら、ちょっと静かにしてもらおうかしら」
その言葉が落ちると同時に、廊下の床と壁が一斉に十数本の裂け目を走らせ、その裂け目から暗紫色の触手がすさまじい勢いで飛び出した。触手の表面は湿った光沢を帯び、細かい吸盤に覆われている。先端は微かに巻き上がり、まっすぐに芯へと襲いかかった。
芯は即座に横へ転がり、第一波を回避した。右手を後ろ腰に回し、戦術ナイフを抜き放つ。一本の触手が側面から襲いかかり、芯は刀を一閃して斬り落とす。刃が触手の表面に食い込み、浅い切り口が走る。触手は激しく収縮して引っ込み、暗い色の液体を一筋、滲ませた。
続いて三本が、異なる方角から同時に迫る。芯は連続して後退し、ナイフで二本を防ぐ。三本目が彼女の肩を掠め、衣服が裂けた。
彼女の能力はBR級ネットパルス。無防備な電子機器なら自在に侵入できる。電子機器の領域ではほぼ無敵に等しい。だが、この場で侵入できるのは、とっくに電源を落とされた壁の監視カメラ数台だけ。ほとんど使い物にならなかった。
「くそ……よりによって、こんな場所を選ぶべきじゃなかった」芯は低くつぶやいた。
「なかなか避けるじゃない」萦は笑みを浮かべ、右手を上げて五本の指をそっと握り込んだ。
さらに多くの触手が四方八方から押し寄せてきた。芯はすかさず体を傾けて二本をかわし、身を屈めて三本目を躱し、逆手に構えたナイフで四本目を斬り払う。だが、着地した瞬間、足元の床に淡い青い光の紋が一巡、浮かび上がった。
あの若い男、隙が、いつの間にか彼女の足元に転送門を開いていたのだ。
芯の身体は一瞬で無重力に陥り、九階から八階へと落下した。視界がその一秒の間に激しく回転する。体勢を整える間もなく、周囲の触手が既に押し寄せていた。
一本の触手が彼女の右手首に巻きつき、強く引っ張った。ナイフが手から飛び、床の上を二度跳ねて、物陰へと滑り落ちていく。続いて二本目が左腕に絡み、三本目が背後から回り込んで腰をぎゅっと締め上げ、四本目が足首に巻きつくと、一気に力を込めて、彼女の身体を地面から吊り上げた。
芯は宙に吊り上げられ、四肢を触手に限界まで引き伸ばされる。完全に無防備な、あらわな姿勢だった。
「離せ!」芯はもがいた。だが、触手の巻きつく力は彼女の予想をはるかに超えていて、手首も足首もがっちりと固定されている。触手の表面の細かな吸盤の紋様が、服越しに皮膚へ食い込んでくる感覚すらあった。
萦がゆっくりと歩み寄り、空中に吊るされた彼女の姿を見上げた。その目には揶揄の色が浮かんでいる。
「なかなか扇情的な格好ね」萦は小首を傾げた。一本の触手が彼女の背後から伸び上がり、芯の目の前へと回り込む。その尖端は、芯の頬の真正面に突きつけられた。「訓練された肢体……東カーネルハイトの訓練の成果は、確かに悪くないみたい」
芯は顔をほんのり赤らめ、屈辱に声を絞り出した。「あんたの性癖も、その程度なんだな」
「挑発しても無駄よ」萦はくすりと笑い、触手の先端をゆっくりと下げ、芯の唇のすぐそばに停めた。「それに、今のあんたがそんなことを言っても、少しも威圧感なんてないわ」
芯がまだ言い返す前に、その触手が彼女の口の中へと入り込んできた。
触手の表面はぬめりとしていて、なおかつ強靭だった。塩気と生臭さの混じった匂いがする。それは彼女の舌のつけ根を押し込み、彼女が発しようとするすべての声を押しつぶした。
芯の喉の奥から、くぐもったうめき声が漏れる。目は大きく見開かれ、瞳孔が薄暗がりの中で微かに収縮した。身体が本能的に弓なりに反り返るが、巻きついた触手がさらに強く締め上げる。
「う……!」
萦は首をかしげて彼女の反応を眺めた。「あら、もう声も出せなくなっちゃった」
芯の呼吸は急速に乱れ、塞がれた口の端からは、意味をなさない微かな音が溢れる。顎は持ち上がり、口元からは細く透明な糸が一筋、長く伸びた。
頬は赤く、目尻はほんのりと濡れている。彼女の心の中は、ただただ不服だった。触手は彼女の腰と鎖骨の間に絡みつき、体全体を半弓形に固定していて、足の爪先までがピンと張り詰めている。
隙は数歩離れた場所に立ち、両手をポケットに突っ込んだまま、その視線を芯の上から、長く留めずに通り過ぎた。「あんまり遊ぶなよ。東カーネルハイトの連中と、正面から事を構えるのは御免だ」
「わかってるわ。ちょっと黙らせただけ。霊心仮面に気づかれないようにね」萦は口を塞いでいた触手を引き戻した。芯は即座に激しく咳き込み、大きく喘ぎ始めた。口元にはまだ、きらきらと光る糸が一筋、垂れ下がっている。彼女は下唇を噛み、荒い呼吸のまま、触手の束にきつく抱え込まれるようにして身を縮めた。
「まずは、おとなしくしていてもらう」隙は彼女の前まで歩み寄り、しゃがみ込んだ。「俺たちは東カーネルハイトと真正面からやり合いたいわけじゃない。東カーネルハイトは小隊単位で動く。近くに仲間がいるのはわかってる。だから今夜はここまでだ。お前はここでゆっくり休んでろ。俺たちは俺たちの仕事をしてくる」
芯は両手を背中に縛られ、両脚も縛られ、体を丸めて地面に横たわっていた。胸の上下が、巻きついた触手によってくっきりと形作られている。萦はわざわざ触手を二本、彼女の鎖骨と腰の横に回して、より強固に固定していた。
「行くよ」隙は立ち上がり、その視線を窓の向こう、病院の方角へと投げた。「霊心仮面を引き離す方法を考えなきゃならない」
萦は地面で触手にきつく包まれた芯を振り返り、微笑んだ。「いい子にしてるのよ」
芯は唇を噛みしめ、胸を激しく上下させ、耳の奥には、自分の荒い心音だけが響いていた。
その時、夜空を切り裂く鋭い風切り音が響いた。
隙と萦が同時に顔を上げる。
黒い影が一つ、遠くの高層ビルの間を猛烈な勢いで飛んでくる。その速度は圧倒的で、衣の裾が夜風にまっすぐな一本の線を描く。影は屋上を越え、空中で一回転し、音もなく廊下の突き当たりの窓枠の上に着地した。
黒い短髪。右目には半透明の戦術レンズを装着し、そのレンズが微かに発光している。左腕の外側には、手首から肩へと伸びる暗色の紋様が走っていた。東カーネルハイト、クリーフ小隊副隊長。コードネーム「映」。
映は廊下を一瞥し、その瞳が微かな赤い光を放つ。触手に絡め取られた芯の姿が目に入ると、彼はわずかに目を細めた。
「よりによってこいつが出てくるとは。少し面倒になったな」隙が低く言った。
萦の触手が背後の宙で集束し、防御の態勢を取る。
夜風が窓穴を吹き抜け、三人が暗闇の中で対峙した。
芯は地面に身を縮めたまま、荒く息をし、口元の透明な糸が月明かりの下で細かく光っていた。
「本作品の内容(ストーリー・設定・キャラクター)はすべて作者自身が創作したものです。ただし、日本語への翻訳に際し、AI翻訳ツールを参考・補助として使用していることをお伝えいたします。翻訳の正確性には細心の注意を払っておりますが、不自然な表現がありましたらご指摘いただけますと幸いです。」




