第七話 刺客は、泣きながら、いい匂いがした
悪臭の真ん中で、スミレは、うずくまっていた。
俺は、彼女を、追い詰めたまま、動かなかった。ここで、もう一滴、鼻先に垂らせば、たぶん、彼女は気を失う。刺客としては、そこまでやるのが、正解なんだろう。
でも、しなかった。
俺は、そういうの、面倒くさい。それに――泣いている相手を、これ以上、いじめる趣味も、ない。
俺は、右手を、下ろした。それから、少しずつ、意識して、汁の匂いを、引かせていく。あたりを覆っていた悪臭が、風にほどけて、薄くなっていく。天国は戻ってこないが、地獄も、去っていく。ただの、夕方の、通りの匂いになった。
スミレが、ようやく、まともに息をした。
「……とどめ、刺さないの」
「刺してほしいの?」
「ううん」
即答だった。それから、彼女は、ちょっとだけ、笑った。泣きながら、笑う、変な顔だった。
「あなた、ほんと、変な人」
「よく言われる」
スミレは、地面に座り込んだまま、ぽつぽつと、話しはじめた。
彼女も、判定のとき、周りに、ちやほやされたらしい。『芳香』。いい匂いを操る、素敵なスキル。将来は、香水会社にでも、引っ張りだこだ、と。みんなが、羨ましがった。俺の判定の日と、正反対だった。
「でも、気づいたの。わたしの匂いを浴びた人は、みんな、わたしに、優しくなる。……ほんとうに優しいのか、匂いのせいで優しいのか、区別が、つかなくなった」
スミレは、膝を抱えた。
「誰も、素のわたしを、好きになってくれない。全部、匂いなの。わたしが部屋に入ると、みんな笑顔になる。でも、それは、わたしじゃない。匂いに、笑ってる」
その気持ちは、少しだけ、分かる気がした。
俺は、逆だ。俺が入ると、みんな、逃げる。でも、どっちも、たぶん、同じところに立っている。匂いのせいで、素の自分を、見てもらえない。
俺は、逃げられる。スミレは、好かれる。真逆なのに、行き着く先が、同じだった。誰も、匂いの向こうにいる、こっちを、見ない。
なんだか、変な気分だった。世界でいちばん相性が悪そうな二人が、いちばん似た痛みを、抱えていた。
「機関の人が、言ってくれたの。あなたのその力は、正しい、って。世界を、いい匂いだけにできる、素晴らしい力だ、って。……嬉しかった。初めて、必要とされた気がした。だから、来たの。あなたを、消しに」
スミレは、俺を、見た。
「でも、あなたを見てたら、分からなくなっちゃった。あなた、自分のくさい匂いを、全然、恥じてない。むしろ、気に入ってる。……なんで? どうして、そんな、平気でいられるの」
「気に入ってるからね」
「それだけ?」
「それだけ」
スミレは、また、泣きそうな顔で、笑った。
「……たぶん」と、俺は、珍しく、少し考えてから、続けた。「匂いに好かれても、匂いに嫌われても、どっちでも、俺は俺だし。だったら、好きなほうで、いいかなって。あんたのも、あんたのだよ。あんたが優しいのは、匂いの手柄じゃない」
スミレが、目を、丸くした。
それから、下を向いて、しばらく、黙っていた。肩が、小さく、震えていた。泣いているのか、笑っているのか、俺には、分からなかった。たぶん、両方だった。
「……ねえ」
彼女は、少し、迷ってから、言った。
「機関がね、あなたを、特別に警戒してる理由、教えてあげる。……昔、いたんだって。あなたと、同じ匂いの人が」
俺の中で、何かが、ぴくりと、動いた。
あの人と、同じだ。判定の日、教官が言った、あの言葉。
「分泌型。あなたと同じ、手から悪い匂いを出す人。その人がね、たった一人で、機関を、半分、潰したんだって。誰も近寄れないから、誰にも止められない。攻撃も、防御も、意味がない。交渉のテーブルにつかせるのも、無理。捕まえようとした部隊は、近づくことすら、できなかった。牢屋にも入れられない。看守が、もたないから。……その人がその気になれば、どんな国でも、匂いひとつで、動かせたって」
「……なにそれ。無双じゃん」
「うん。無双だったの。……機関が『清浄化』を本気で始めたのは、その人を、二度と生ませないため。あなたは、その人の、再来なの」
「その人は、今、どこに」
「わからない。ある日、消えたって。……ただ」
スミレは、声を、落とした。
「機関の一番偉い人が、その人の名前を出すとき、すごく、こわい顔をするの。憎んでるんじゃない。……怯えてるみたいな、顔」
俺は、その話を、黙って、聞いていた。
自分と同じスキルの人間が、過去に、いた。それだけでも、初めてのことだった。二百人いて、俺ひとりだと思っていた。唯一無二だと、気に入っていた。でも、たった一人、同じ場所に立っていた人が、いたらしい。しかも、その人は、世界を、匂いひとつで、動かした。
俺が、のんびり臭い汁を出しているうちに、そこまで行ってしまった人が、いた。
消えた、分泌型の先人。機関が、心の底から、恐れている、男。
その正体を、俺は、まだ、何も知らない。ただ、胸のどこかが、ざわりとした。知りたい、と、初めて、思った。
スミレは、よろよろと、立ち上がった。
「わたし、帰る。今日のこと、機関には……うまく、言っておく」
「いいの? 刺客なのに」
「知らない。もう、どうでもよくなっちゃった」
彼女は、白いワンピースの裾を払って、背を向けた。数歩、歩いてから、振り返る。
「ねえ。あなたのその匂い、世界で一番くさかった。……でも、ちょっとだけ、忘れられない匂いだった。最悪」
「ほめてる?」
「けなしてる」
「でも」と、彼女は、最後に、付け足した。「もし、あの人を探すなら……気をつけて。機関が、いちばんあなたに来てほしくない場所に、きっと、答えがあるから」
それだけ言い残して、スミレは、行ってしまった。彼女が去ると、いい匂いも、一緒に消えて、あとには、ほんのり、俺の悪臭の名残だけが、残った。
「……ん? あれ、俺、何して……」
足元で、剛が、目を覚ました。倒れていたことも、忘れているらしい。むくりと起き上がって、きょろきょろしている。
「剛、起きた?」
「おう。……で、敵は?」
「もう、帰った」
「はぁ!? 俺の、出番は!?」
「三秒で寝てたよ」
ノノが、すかさず、ノートを見せた。何やら、しっかり記録されている。剛が、それを見て、頭を抱えた。
いつもの、放課後だった。
でも、俺の頭の中には、さっき聞いた話が、ずっと、残っていた。
消えた、先人。あの人と、同じ匂い。
――明日、あの教官に、会いに行こう。
俺は、まだ暮れきらない空を見上げて、そう、決めた。
▼次回予告
次回、キヨシ、判定の日の教官を訪ねる。「あの人と、同じだ」――その言葉の、続きを聞きに。
▼今日の臭汁一品
番外・|刺客が泣きながら残していった、いい匂いの最後のひとかけ《敗北のかおり》
ノノ評:「敵の匂いだが、いい話だったので保存」
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