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第六話 悪臭で、天国を、塗りつぶす

まだ溶けていない、頭の芯で、俺は考えていた。


汁は、出そうと思って出せない。緊張や、気の張りがいる。でも今は、甘い匂いに頭が痺れて、集中なんて、できっこない。


じゃあ、集中じゃない方法で、出す。


やり方は、一つ、思いついていた。最悪の、やり方だ。


俺は、震える右手を、自分の鼻に、近づけた。そして、いつも滲む、あのほんの少しの汁を――思いっきり、吸い込んだ。


うわ、くさ。


自分でも、そう思った。


でも、平気だ。俺は、自分の匂いだけは、平気なんだ。そして、この「くさい」という感覚が、甘い霧に、穴を開けた。頭の芯に、すっと、意識が戻ってくる。いい匂いに溶けかけていた輪郭が、悪臭で、かちっと、固まった。


毒を、毒で、消す。


いや――臭いを、臭いで、消す。


膝に、力が戻ってきた。さっきまで他人事みたいだった自分の体が、ちゃんと、自分のものに戻ってくる。地面が、遠くなくなる。


俺は、立てた。


「……え?」


スミレが、初めて、戸惑った声を出した。


「どうして、立てるの。わたしの匂いを、浴びてるのに」


「自分の匂い、嗅いだから」


「は?」


「俺、自分のだけは、平気なんだよね。だから、鼻の中を、先に、自分ので埋めた。そしたら、あんたの匂いが、入ってこない」


言いながら、俺は、ちょっと、感心していた。弱点だと思っていた「他人の匂いに弱い」が、裏を返せば、「自分の匂いで、上書きできる」ということだったなんて。長い付き合いのスキルに、まだ、こんな使い方があったのか。他人の匂いに弱いのは、他人の匂いに、敏感だから。敏感だから、自分の匂いで塞げば、いちばん確実に、塞げる。弱点と強みは、たいてい、地続きだ。


スミレの顔から、余裕が、抜けていく。


彼女は、慌てて、両手を掲げた。あたりの甘い匂いが、一気に濃くなる。さっき俺を膝つかせた、あの濃度だ。いや、それ以上。本気の、全力だった。


でも、もう、効かなかった。


鼻の奥は、俺自身の匂いで、みっちり埋まっている。どれだけ甘い霧を浴びせられても、その手前で、俺の悪臭が、壁になる。世界でいちばんいい匂いが、俺には、もう、届かない。


「な、んで……効かないの……」


スミレの声が、震えていた。彼女は、たぶん、生まれて初めてだったんだと思う。自分の匂いが、まるで効かない相手に、会うのは。


その、ちょうどそのとき。


「清水ァ! 無事か!」


通りの角から、でかいのが、突っ込んできた。


百目鬼剛だった。どこかで騒ぎを聞きつけたらしい。両腕を交差させた、あの無敵防御の構えで、俺とスミレの間に、割り込もうとして――


三歩で、足が止まった。


「……ん? なんか、いい匂い……」


へにゃ、と、剛の顔が、崩れた。


そして、あの巨体が、どしーん、と、幸せそうに、地面に倒れた。無敵の防御は、匂いを、防げない。突っ込んできて、三秒で、天国に行った。


「剛……」


役に、立たない。いや、来てくれたのは、ありがたいけど。


ノノが、倒れた剛を見て、ぼそりと言った。


「番外・本気で走った男子の、また別の日」


「記録するな、今は」


でも、剛が来てくれたおかげで、俺は、一つ、腹を決めた。


こいつは、匂いにやられると分かっていて、それでも、俺のために、突っ込んできた。ノノは、震えながら、俺の前に立った。二人とも、俺の「くさい」を、まっすぐ、味方してくれた。


だったら、俺が、いつまでも、情けない顔を、しているわけには、いかない。


俺は、ノノの肩を、そっと、自分の後ろに、下がらせた。今度は、俺が、前に立つ番だった。


スミレは、後ずさっていた。


俺が立ち上がり、剛が転がり、ノノが記録を取っている。彼女の思いどおりの絵が、どんどん、崩れていく。


「あなた……なに、なの。みんな、わたしの匂いで、幸せになるのに」


「ならない人も、いるよ」


俺は、右手に、意識を集めた。もう、頭は、痺れていない。自分の匂いで、守られている。この状態でなら、いつもどおり、出せる。


じわ、と、てのひらに、来た。今日は、たっぷりだ。緊張じゃなくて、覚悟で、滲んでいる。


「言っとくけど」と、俺は言った。「あんた、鼻、いいでしょ」


スミレの、肩が、跳ねた。


当然だ。匂いを操るスキルなんだ。人一倍、鼻がいいに、決まっている。そして――強くて、鼻のいいやつほど、俺の汁は、よく効く。


あの魔獣が、ひと嗅ぎで逃げ帰った匂いだ。いい匂いしか知らない、鼻の敏感な彼女が、これを、まともに嗅いだら。


「じゃ、出すね」


俺は、右手を、前に出した。


覚悟で滲んだ汁は、いつもより、ずっと濃かった。それを、甘い花畑の真ん中に、一滴、そっと、垂らす。ぽたり、と、アスファルトに落ちた。


それだけで、充分だった。


――世界が、ひっくり返った。


噎せ返る甘さが、一瞬で、塗りつぶされた。あたり一帯が、俺の悪臭で、上書きされていく。花畑は消え、天国は消え、あとに残ったのは、この世でいちばん、生き物が近寄りたくない、あの匂いだけ。ノノの記録ノートによれば、三番。潮干狩りのあと、車のトランクに一日忘れた、バケツの中身。あれだ。


「――ひっ」


スミレの喉から、ひきつった声が漏れた。


彼女の、匂いに敏感な鼻が、それを、まともに、受け取ってしまった。人が幸せになる匂いしか、扱ってこなかった鼻に、その真逆が、直撃する。


スミレの目に、じわっと、涙が浮かんだ。膝が、崩れる。あんなに凛としていた立ち姿が、嘘みたいに、白いワンピースが、地面に、ぺたりと座り込んだ。


「な……なに、これ……こんな、匂い……嗅いだこと、ない……っ」


うずくまって、口を押さえて、彼女は、震えていた。


いい匂いで、人を虜にしてきた刺客が、悪臭の一滴の前で、生まれて初めて、逃げ出したそうな顔をしていた。


俺は、その様子を、いつもの温度で、眺めていた。


それから、ぽつりと言った。


「いい匂いって、便利だね。でも、俺のこれ、たぶん、あんたのより、ちょっとだけ、強いよ」


スミレは、答えなかった。


うずくまったまま、涙目で、俺を、見上げている。悔しさと、混乱と――それから、少しだけ、別の何かが、混じった目だった。


その口が、ゆっくり、動いた。何か、言おうとしている。


俺は、待った。悪臭の真ん中で、彼女が、口を開くのを。

▼次回予告

次回、刺客・スミレが膝をつく。そして彼女の口から、キヨシと「同じ匂い」を持っていた、もう一人の名が。


▼今日の臭汁一品

三番・|潮干狩りのあと、車のトランクに一日忘れたバケツ《海の記憶》

ノノ評:「保存対象。先輩、渾身の一滴でした」


※感想で「三番、保存する? 削除する?」教えてくれると励みになります。

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