第五話 最強のはずが、いい匂いで死にかけた
その日の帰り道は、やけに、いい匂いがした。
最初は、どこかの家で花でも活けているのかと思った。あるいは、通りのケーキ屋が新作でも焼いているのか。甘くて、柔らかくて、うっとりするような匂い。世界中のいい匂いを集めて、煮詰めたみたいな。
いい匂いだ。
最高に、いい匂いだ。
――で、俺は、その場に、片膝をついた。
「せ、先輩!?」
隣を歩いていたノノが、俺の腕を掴む。
またこれだ。他人の匂い。しかも、今日のは、桁が違う。洗川の香水なんて、比じゃない。頭の奥がじんと痺れて、視界が白く溶けていく。立っていられない。呼吸すら、うまくできなかった。
いい匂いで死ぬ、と思った。人生で、いちばん間抜けな死に方だ。
手をつこうとした地面が、やけに遠かった。指先に、力が入らない。逃げよう、と思っても、足が、他人のもののように動かない。うっとり、という感覚は、こんなにこわいものなのか。気持ちいいのに、抵抗できない。溺れるって、たぶん、こういう感じだ。
「あら。もう効いてる」
声がした。
顔を上げると、通りの真ん中に、女が一人、立っていた。俺と同じくらいの歳。長い髪。制服じゃなく、白いワンピース。花畑から抜け出してきたみたいな、そういう立ち姿だった。
匂いの、源だ。
「はじめまして、清水キヨシくん。匂坂スミレ、っていいます」
彼女は、にっこり笑った。
「清浄化機関から来ました。あなたを、消しに」
スミレのスキルは、『芳香』というらしい。
どんな匂いでも、思いのままに、あたりに満たせる。花でも、菓子でも、雨上がりでも。しかも、ただ香らせるだけじゃない。嗅いだ人間を、うっとりさせて、骨抜きにする。抵抗する気力を、根こそぎ奪う。
「わたしの匂いを嗅いだ人はね、みんな、幸せそうな顔で、動けなくなるの」
ちょうど、通りの向こうから、買い物帰りらしい男の人が歩いてきた。スミレが、そちらへ、ふっと手をかざす。甘い匂いが、風に乗って、流れていく。
男の人は、二、三歩進んだところで、足を止めた。それから、へにゃ、と笑って、その場に、座り込んだ。買い物袋を抱えたまま、幸せそうに、目を閉じている。世界でいちばんいい夢でも、見ているみたいに。
「ね? 誰も傷ついてないでしょう。血も出ない。痛くもない。ただ幸せになって、動かなくなるだけ」
スミレは、それを、いいことのように言った。
俺は、ぞっとした。悪臭で追い払われるより、こっちのほうが、ずっと、こわい。
スミレは、ゆっくり歩いてくる。一歩ごとに、いい匂いが濃くなる。俺の膝は、もう、笑っていた。
「あなたと、わたし、正反対でしょう。あなたは、悪い匂いで、みんなを遠ざける。わたしは、いい匂いで、みんなを虜にする。……でも、結果は同じ。どっちも、人を、思いどおりにできる」
違う、と言いたかった。
俺は、誰も思いどおりになんて、していない。ただ、近寄られたくないだけだ。
でも、口を開くと、甘い空気が喉に流れ込んできて、言葉にならなかった。
「機関の人たちは、あなたのことを、汚点って呼んでた」
スミレは、しゃがんで、俺と目線を合わせた。近い。近いと、匂いが、もっと効く。
「でもね、わたしは、ちょっと違うと思ってる。あなたは、汚点じゃない。もったいないの。せっかく匂いの力を持って生まれたのに、こんな、くさいだけのことに使って。……ねえ、わたしと来ない? いい匂いだけの世界を、一緒に作ろう。あなたの力、正しく使えば、すごいことになる」
誘っているのに、その目は、少しも、こっちを見ていなかった。
洗川と、同じ目だった。理解の外にあるものを、無理やり、自分の枠に入れようとする目。
俺は、痺れる頭で、必死に、右手に意識を集める。汁を、出そうとする。こういうときこそ――。
でも、出ない。
いい匂いに、頭が支配されて、集中が、まるでできない。緊張も、気の張りも、全部、甘い霧の中に溶けていく。武器を出せない。生まれて初めて、俺は、自分のスキルを、使えなかった。
「無理しないで。もう、終わりだから」
スミレの手が、俺の頬に、伸びてくる。
「先輩に、さわるな」
小さい体が、俺とスミレの間に、割り込んだ。
ノノだった。両手を広げて、俺をかばうように、立っている。膝が、震えていた。この子だって、この匂いを、浴びているはずなのに。
「あら。あなた、平気なの?」
スミレが、少し、目を見開いた。
ノノは、答えなかった。ただ、歯を食いしばって、俺の前に立ち続けている。
――そうか、と、俺は、朦朧としながら思った。
ノノは、あらゆる匂いを、記憶として保存するスキルだ。いい匂いも、悪い匂いも、同じ「記録の対象」として、フラットに受け止める。だから、うっとりも、骨抜きにも、たぶん、なりきらない。この子の鼻は、匂いに、酔わない。
「じゃあ、あなたから、先に消すね」
スミレの声から、笑みが消えた。
あたりの匂いが、変わる。甘い花畑が、噎せ返るような、濃密な何かに変わっていく。息をするのもつらい濃さだ。ノノの小さな体が、ぐらりと、揺れた。酔わないだけで、無敵じゃない。量で押されれば、この子だって、もたない。
それでも、ノノは、俺の前から、動かなかった。
「わたしは……先輩の、弟子です」
絞り出すような声だった。
「先輩の匂いを、世界でいちばんいいって、知ってるのは、わたしだけなんです。だから、ここで、退けない」
スミレの匂いが、一瞬、揺らいだ気がした。理解できない、という顔で、ノノを見ている。
「せん、ぱい……」
ノノが、俺の名を呼んだ。
助けを求める声じゃなかった。ごめんなさい、みたいな声だった。俺を守れなくて、ごめんなさい、みたいな。
――ふざけるな、と思った。
守られる側が、謝られて、どうする。
俺は、霞む頭で、必死に考える。いい匂いに、頭がやられる。汁が出せない。じゃあ、どうすればいい。
ひとつだけ、確かなことがあった。
俺は、自分の匂いだけは、平気だ。どんなにくさくても、へっちゃらだ。――もし、この甘ったるい空気を、まるごと、俺の匂いで、塗りつぶせたら。
白く溶けた頭の、いちばん奥。まだ溶けていない、ちいさな芯に、俺は、ありったけの意識を、押し込んだ。
▼次回予告
次回、キヨシ反撃。ヒントは「自分の匂いだけは平気」。最強の悪臭が、最強の芳香を、上から塗りつぶす。
▼今日の臭汁一品
番外・|通学路で嗅いだ、幸せすぎて逆にこわい匂い《天国》
ノノ評:「先輩の汁ではない。むしろ敵。だが記録した」
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