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第四話 無臭を掲げる組織の勧誘担当が、なぜか香水くさい

その男は、校門の脇に立っていた。


放課後。俺とノノが下校しようと門を出たら、街灯の下に、細い男が一人。黒い服。前に、二回見た影だ。ノノと空き教室にいた夜と、剛が地面に伸びた昼休み。距離を取ってこっちを見ていた、あいつ。


今日は、逃げなかった。


まっすぐ、俺の前に歩いてくる。


そして、五歩ほど手前まで来たところで――俺の膝が、かくん、と抜けた。


「先輩!?」


ノノが慌てて俺の腕を掴む。


なんてことはない。匂いだ。男から、猛烈な香水の匂いがした。花と、柑橘と、何か甘いものを、瓶ごと浴びたみたいな匂い。


ここで、一つ、白状しておかないといけないことがある。


俺は、自分の悪臭は、まったく平気だ。どんなにくさい汁を出しても、へっちゃらだ。何番だろうが、地下室の雑巾だろうが、平気で嗅げる。


だけど、他人の匂いには、めっぽう弱い。


強い匂いを浴びると、頭がくらくらして、立っていられなくなる。満員電車なんて、地獄だ。誰かの整髪料と、誰かの柔軟剤と、誰かの昼飯が混ざった車内で、俺はいつも、吊り革にしがみついて、失神しかけている。魔獣を一滴で追い返す男が、通勤ラッシュには勝てない。


悪臭を武器にする男が、実は、世界でいちばん鼻が繊細だった。笑うところだと思う。俺は、あんまり、笑えないけど。


「……大丈夫ですか」


男が、心配そうに言った。声は、丁寧だった。


「あなたのせいなんだけど」と俺は言った。「その、香水」


「ああ」


男は、自分の襟元を、指で軽く払った。悪気は、まるでなさそうだった。


男は、胸ポケットから、一枚の名刺を出した。


白い紙に、青い字で、こう書いてある。


『清浄化機関 洗川』


「洗川と申します」


あらいかわ、と読むらしい。清め、洗う、そういう字を、これでもかと並べた組織だった。


「清水キヨシくん。きみのスキル、『悪臭分泌』について、話がある」


「はあ」


「単刀直入に言う。きみのその力は、この世界にとって、汚点だ」


汚点。ずいぶん、はっきり言う人だった。俺は、くらくらする頭で、その言葉を、ゆっくり飲み込んだ。


「我々は、世界から、あらゆる不浄な匂いを取り除くために活動している。悪臭は、乱れだ。混沌だ。人が人であることを、忘れさせる。――そして、きみは、その悪臭を、生み出す側の人間だ」


洗川は、静かに続けた。怒っているわけでも、脅しているわけでもない。ただ、当たり前のことを説明する、という口ぶりだった。それが、いちばん、気味が悪かった。


「だから、提案がある。きみのスキルを、こちらで、処理させてほしい」


「処理」


「消す、ということだ。二度と、汁が出ないようにする。きみは、普通の、無臭の人間になれる。もう、誰にも笑われない」


ノノの手が、俺の腕を掴んだまま、ぎゅっと力を込めた。


そして、小さいのが、一歩、前に出た。


「……いやです」


声が、震えていた。それでも、はっきり言った。


「先輩の匂いは、汚点じゃありません。わたしが、世界でいちばん、いい匂いだって、知ってます」


洗川が、ノノを見た。心底、不思議そうな目だった。害虫を見る目でも、敵を見る目でもない。ただ、理解の外にあるものを見る、という目だった。


「……きみは、鼻が、おかしいのか」


「おかしくないです」


ノノは、引かなかった。判定もまだの、小さい後輩が、大人の男の前で、足を踏ん張って、引かなかった。


俺は、その横顔を、ちょっとだけ、見た。


それから、洗川に、向き直る。


くらくらする。香水がきつい。でも、言うことは、とっくに決まっていた。


「いらない」


「……なに?」


「このスキル、気に入ってるんで。消されたら困る」


消して、普通の、無臭の人間に。冗談じゃない、と思う。普通なんて、掃いて捨てるほどいる。二百人いて、俺ひとりのスキルだ。世界にひとつしかない。それを手放す理由なんて、俺の中には、一つもなかった。


洗川の、丁寧な顔が、初めて、少しだけ止まった。理解できない、という顔だった。世界中に笑われるスキルを、断る理由が、この男には、たぶん一つも思いつかないんだろう。


俺は、くらくらしながらも、さっきから、一つ、気になっていた。


この香水。強すぎる。強すぎて、逆に、その奥が、分かってしまう。


俺は鼻が弱い。でも、弱いというのは、敏感、ということでもある。強い匂いの下に隠れているものを、俺の鼻は、勝手に拾ってしまう。


「洗川さん」


「なんだ」


「その香水の下、けっこう、臭いですね」


洗川の肩が、びくっと跳ねた。


「……なに、を」


「汗と、たぶん、疲れと。あと、体質だと思うんですけど。あなた、自分の匂い、消せてないでしょ。だから、香水で、上から塗ってる」


図星だ、という顔だった。


無臭の世界を、と語る組織の人間が、自分の匂いひとつ、消せていない。消せないから、瓶ごと香水をかぶって、ごまかしている。世界を清めるどころか、自分すら清められていない男が、俺のスキルを「汚点」と呼んでいた。


「そんなに無臭がいいなら」と俺は言った。「まず、自分から、どうぞ」


洗川は、何も言い返さなかった。青い字の名刺と同じ顔で、ただ、俺を見ていた。


少しして、洗川は、襟を正した。


「……今日は、通告だけだ」


声から、さっきまでの丁寧さが、少し抜けていた。


「覚えておけ。きみのような『分泌型』は、過去にも一人いた。彼が、最後、どうなったか――」


言いかけて、洗川は、口を閉じた。


言いすぎた、という顔だった。


「あの人と、同じだ」。判定の日、教官が俺に言った言葉が、頭の隅で、ちりっと鳴った。分泌型。過去に一人。だけど、その先を、洗川は言わなかった。俺も、まだ、何ひとつ、知らなかった。


「また来る」


それだけ言って、洗川は、背を向けた。香水の匂いが、遠ざかっていく。匂いが薄れるにつれて、俺の膝に、少しずつ、力が戻ってきた。


見えなくなるまで、俺は、その細い背中を見送った。


「……先輩」


「大丈夫。もう平気」


ノノが、腕を離した。それから、例のノートを、そっと開いた。


「今の、香水」


「保存した?」


「番外として、記録しました。評価は――」


ノノは、几帳面な字で、ペンを走らせた。


「『保存対象外』」


きっぱりと言い切った。世界中の悪臭を「保存対象」と呼ぶこの子が、あの香水だけは、いらない、と言った。なんだか、その一言で、俺は、ちょっとだけ、元気が出た。


変な後輩だ。でも、悪くない後輩だ。


帰り道、ノノは、いつもより半歩、俺の近くを歩いた。


ただ、一つだけ、引っかかっていた。


あの香水。あれは、たまたま、じゃなかったかもしれない。


俺の汁は、攻撃じゃない。硬い壁も、強い耐性も、意味がない。斬れないし、燃やせない。世界中のどんなスキル持ちも、俺の一滴の前では、逃げるしかない。


でも、逃げなかった人間が、今日、一人いた。香水で、自分の鼻を、塗り潰してきた男。


悪臭で誰も近寄れない男の、たった一つの穴。強い匂いに、弱い。


もし、洗川が、あの膝の抜けた一瞬を、見逃していなかったとしたら。


「いい匂い」は、たぶん、俺にとって、いちばん効く毒になる。


このときの俺は、それが次にどう使われるか、まだ、ちゃんとは、考えていなかった。

▼次回予告

次回、清浄化機関がキヨシの弱点に気づく。悪臭無双のキヨシを倒す方法は、たったひとつ――「いい匂い」だった。刺客、香る。


▼今日の臭汁一品

番外・洗川さんの香水(文明の匂い)

ノノ評:「保存対象外」


※感想で「番外、保存する? 削除する?」教えてくれると励みになります。

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