第三話 再戦を申し込まれたが、戦った覚えがない
「斬らない。燃やさない。ただ、近寄れない。」
昼休み、購買のパンを片手に廊下を歩いていたら、前から人の壁が来た。
比喩じゃなくて、本当に壁みたいな体格だった。百目鬼剛。判定の日、魔獣を真正面から受け止めて、それでも一歩も押し返せなかった、あの無敵防御の男だ。
剛は俺の三歩手前で立ち止まると、びし、と指を突きつけてきた。
「清水! 俺と、もう一度勝負しろ!」
廊下がしんとした。周りの奴らが、何事かとこっちを見る。
俺はパンをひとくち齧ってから、ゆっくり飲み込んで、言った。
「もう一度って言われても」
「あの日の決着を、つけにきた!」
「一度も、勝負した覚えがないんだけど」
これは嘘じゃなかった。あの日、俺がやったのは、暴れる魔獣に汁を一滴垂らしただけだ。剛と戦ったつもりは、まったくない。というか、剛のことは、腕を交差させて頑張ってたな、くらいの記憶しかない。
剛の顔が、かっと赤くなった。
場所を移して、話を聞くことになった。
というのも、剛が廊下のど真ん中で「聞け!」と叫び出して、収拾がつかなくなったからだ。人だかりができかけたところで、俺は剛の袖を引いて、校舎裏へ連れていった。
ついでに、なぜかノノもいた。
いつのまにか半歩後ろにいて、例の分厚いノートを開いている。表紙の『清水キヨシ 臭汁記録』の文字が、日の光で見えた。
「なんでいるの」
「記録は、いつ何が起きるか分かりませんから」
真顔だった。
校舎裏の、誰も来ない一角。剛は腕を組んで、しばらく地面を睨んでから、絞り出すように喋りはじめた。
「あの日から……俺は、眠れてねえ」
「はあ」
「魔獣を止めたのは、俺だ。俺の壁が、あいつを受け止めた。あそこまでは、良かった。だが──最後、場を持っていったのは、お前だ」
剛は拳を握った。
「俺が命がけで受け止めた、その真横で。お前は、ふらっと出てきて、ひょいと、汁を一滴垂らした。それで、終わった。全部、お前で、終わっちまった」
「終わってよかったじゃん」
「よくねえんだよ!」
叫んでから、剛は少しだけ、声を落とした。
「……いや、よかった。よかったんだ。誰も死ななかった。それは、本当にいい。でも、俺の中で、何かが、終わってねえ」
俺は、なんとなく分かった気がした。
剛は、勝ちたかったわけじゃない。ただ、あの日の自分に、まだ折り合いがついていないだけだ。全力を出して、それでも足りなくて、横からひょいと持っていかれた。その気持ちを、どこかに片づけたい。片づける先が、たまたま俺だった。それだけだ。
めんどくさいな、と思った。
でも、ちょっとだけ、分からなくもなかった。
「だから、勝負しろ。一対一で」
剛は、じりっと構えた。両腕を交差させる。あの、無敵の壁の構えだ。
「言っとくけど」と俺は言った。「俺、汁って、出そうと思って出せないんだよね」
「なに?」
「緊張したり、気が張ったりすると、勝手に滲むだけ。今みたいに、はい勝負ですって言われても、たぶん、出ない」
「は?」
剛が、構えたまま、固まった。
実際、てのひらは、乾いていた。剛と向かい合っても、俺の心拍はほとんど動いていない。勝負、という言葉が、俺の中で一ミリも重さを持っていないからだ。
「……じゃあ、どうすんだ」
「俺が訊きたい」
沈黙。
ノノが、ペンを構えたまま、俺たちを見比べている。校舎裏に、風が吹いた。
世界一しまらない、決闘だった。
剛は、それでも引かなかった。
「なら、出るまで待つ」
「待つって」
「お前が汁を出すまで、俺はこの壁を張りつづける。どれだけかかってもいい。それが、俺の勝負だ」
本気だった。目が、本気だった。
こいつは、たぶん、日が暮れてもここに立っている。そういう男だ。魔獣を前にして、一人だけ逃げなかった男なんだから。
俺は、小さくため息をついた。
しょうがないな、と、また思った。この「しょうがないな」で、俺はいつも、余計なことに巻き込まれる。
「分かった。ちょっと、待って」
俺は、目を閉じた。
汁を出すには、気を張らないといけない。緊張。集中。心臓が、少しだけ速くなる何か。俺は、いちばん手っ取り早いやり方を選んだ。剛が、真剣な顔で、俺のために日暮れまで立ちつづける──その、まっすぐさを、正面から想像した。
なんというか、こう、胸のあたりが、むずむずした。
てのひらに、じわ、と来た。
「あ」
「出たか!?」
「出た」
俺は、右手を、軽く前に出した。
剛が、ぐっと壁を固める。無敵防御。突進も、炎も、通さない、あの構え。だけど、こいつは、たぶん、いちばん大事なことを分かっていない。
俺のこれは、攻撃じゃない。
だから、壁は、意味がない。
匂いは、壁の内側に、するりと入る。
次の瞬間、剛の顔が、ぐにゃりと歪んだ。
「──ぐ、っ」
効いている。それも、かなり。
当然だった。剛は、強い。体も、根性も、この学年で一番かもしれない。そして、たぶん、鼻もいい。強くて、鼻がいいやつほど、俺の汁はよく効く。剛は、いちばん効く側の人間だった。
目に、涙が、ぶわっと浮かんでいる。膝が、笑いはじめる。
あの魔獣ですら、ひと嗅ぎで回れ右をして逃げ帰った匂いだ。まともな生き物なら、もう、とっくに走って逃げている。
でも。
剛は、逃げなかった。
「て……めえ……いい匂い、してんじゃ、ねえか……」
「してないと思う」
「くっ……せえ……っ!」
剛は、両足を、地面にめり込ませるみたいに踏ん張っていた。涙と鼻水で、顔がぐしゃぐしゃになりながら、それでも、交差させた腕を、下ろさない。逃げる、という選択肢を、こいつは端から持っていないんだ、と分かった。
あの日、講堂で。誰もが距離を取る中、一人だけ魔獣の前に立ったのと、同じ目をしていた。
俺は、少し、驚いていた。
俺の汁を嗅いで、逃げなかった人間は、これで二人目だ。一人は、うっとり嗅ぐ変な後輩。もう一人は、泣きながら踏ん張る、この馬鹿。
どっちも、まともじゃない。
結局、剛は、たっぷり一分は耐えた。
そして、糸が切れたみたいに、どしん、と尻から地面に落ちた。仰向けに倒れて、青い空を見上げて、荒い息をしている。もう、指一本、動かせないという感じだった。
俺は、その横にしゃがんだ。
「大丈夫?」
「……ぜんぜん、大丈夫じゃ、ねえ」
剛は、天を見たまま、へへ、と笑った。負けた顔じゃなかった。むしろ、どこか、すっきりした顔だった。
「分かった。お前の勝ちだ、清水」
「勝負した覚えはないけどね」
「次は、勝つ」
「聞いてる?」
剛は、それには答えず、目を閉じた。満足そうだった。
この日、俺には、勝手にライバル認定してくる腐れ縁が、一人できた。頼んでもいないのに。
地面に伸びた剛から、汗の匂いが、むわりと立っていた。
俺は、つい、嗅いでしまった。名付けの、癖だ。
「……本気で走った男子の、背中のあたり」
ぽつりと言うと、ノノのペンが、猛烈な速さで走った。
「先輩。これ、先輩の汁じゃ、ないですよね」
「剛の匂いだね」
「では、番外にします」
几帳面な字で、そう書き足す。番号のつかない、番外。俺の汁じゃなくても、保存する価値はある、ということらしい。
「いい記録です」
言い切られた。
俺は、地面に伸びた剛と、幸せそうなノノを、順番に眺めた。
変な放課後──じゃなくて、まだ昼休みだった。昼休みに、こんなに疲れることある? と思う。
でも、悪くない昼休みでもあった。
校舎の、ずっと向こう。屋上の給水塔の陰に、黒い服の影が、ちらりと動いた気がした。だけど、まばたきをしたら、もう、なかった。
気のせいだ、と思うことにした。
このときの俺は、まだ、そう思っていられた。
▼次回予告
次回、無臭化組織が、ついにキヨシに接触してくる。世界を無臭に均そうとする連中。ただし、勧誘に来た担当者が、なぜか、やたら香水くさい。
▼今日の臭汁一品
番外・|本気で走った男子の、背中のあたり《青春》
ノノ評:「先輩の汁ではないが、保存対象」
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