第二話 臭汁に名前をつける
「最弱スキル、実は戦場の土俵ごと無効化。」
判定の翌日から、朽木ノノは俺の家の前にいた。
朝、学校へ行こうと玄関を開けたら、門のところに小さいのが座っていた。膝を抱えて、じっと待っている。俺の顔を見た瞬間、ぱっと立ち上がって、深々と頭を下げた。
「弟子にしてください」
「帰って」
「嫌です」
即答だった。
妹が背後から顔を出して、「あっ、くさ兄、女の子泣かしたの」と言った。泣かしてない。まだ何もしていない。ただ帰ってと言っただけだ。
俺は門を開けて、ノノの横をすり抜けて歩き出した。ノノは当然のようについてくる。半歩後ろを、とことこと。振り切ろうと歩く速度を上げても、小さい体でちゃんとついてくる。しばらく無言で歩いて、俺は諦めて訊いた。
「なんで弟子」
「先輩の匂いを、記録したいんです」
ノノは、抱えていた鞄から、分厚いノートを取り出した。表紙に、几帳面な字で、何か書いてある。
『清水キヨシ 臭汁記録』
勝手にタイトルがついていた。
ノノのスキルは、「記憶保存」というらしい。
嗅いだ匂いを、完全な記憶として、永久に保存できる。時間が経っても薄れない。いつでも、あの日のあの匂いを、そっくりそのまま思い出せる。
「便利なのか、それ」
「便利じゃないって、ずっと言われてきました」
ノノは歩きながら、淡々と言った。花の匂いも、雨上がりの匂いも、覚えていられる。でも、それが何の役に立つのかと訊かれると、答えられない。戦いの役には立たない。金にもならない。だから、判定を控えた彼女は、ずっと自分のスキルを持て余していたらしい。
クラスでは、匂いの話ばかりする変な子、で通っているという。誰々の家の匂い、去年の遠足の匂い。覚えていても、口に出せば、気味悪がられる。だから最近は、言うのをやめた。頭の中だけに、匂いを、しまっておく。
その気持ちは、ちょっと、分からなくもなかった。
役に立たない。金にならない。周りに一人も、同じ人間がいない。俺の右手と、この子の鼻は、たぶん、同じ場所に立っている。
「でも」
と、ノノは足を止めた。俺も止まる。
「昨日、先輩の匂いを嗅いだとき、思ったんです。これは、保存する価値がある、って。今まで嗅いだ、どんな匂いより」
まっすぐな目で言われた。
世界中が逃げ出したあの匂いを、この子は、生まれて初めて「保存する価値がある」と思ったらしい。
俺は、少しだけ、黙った。
自分のスキルを気に入っているのは、俺だけだと思っていた。それを、外から「価値がある」と言われたのは、実は、初めてだった。
「……好きにすれば」
それだけ言って、また歩き出した。
背後で、ノノが小さく「やった」と呟いたのが聞こえたけど、聞こえなかったことにした。
こうして、俺のくさい汁は、記録されることになった。
放課後、ノノは俺を空き教室に連れ込むと、ノートを開いて、ペンを構えた。
「では、さっそく。今日の分を、お願いします」
「今日の分って」
「一日一種類は、新作を出してほしいんです。記録のために」
無茶を言う。汁は出そうと思って出るものじゃない。緊張したり、気が張ったりすると、勝手に滲む。そう説明すると、ノノは「じゃあ緊張してください」と真顔で言った。できるか。
仕方がないので、俺は手のひらに意識を集中した。集中すると、たまに、じわ、と来ることがある。今日はどうだろう。──来た。ほんの少し。
ノノが、すかさず鼻を近づける。ふん、ふん。目を閉じて、しばらく味わってから、開いた。
「ん……これは、いい」
「そう」
「名前を、つけましょう」
「名前?」
「記録するには、名前がいります。一番、二番、って番号を振って、それぞれに名前を」
ノノがペンを構えて、俺を見上げる。
名前、と言われて、俺はなぜか、急に真剣になってしまった。
自分のスキルを、これまで誰かと一緒に扱ったことがない。ずっと一人で、くさい汁だった。それに名前をつける、というのは、なんというか──ちゃんと、向き合う、みたいなことだ。適当につけたくない、と思った。
俺は、いま出した汁の匂いを、もう一度、自分でも嗅いでみた。
じっくり。
最初に浮かんだ言葉は、『くさい』だった。でも、それは、すぐに打ち消した。くさい、なんて、何も言っていないのと同じだ。この匂いは、ただくさいわけじゃない。もっと、はっきりした、どこかの匂いだ。
もう一度、嗅ぐ。
埃。日に焼けた古い布。それから、金属の、ひんやりした感じ。
「……体育倉庫」
「体育倉庫」
ノノが、復唱する。
「いや。もっと、奥。使ってない道具が、押し込まれてる方」
ノノは、ペンを止めたまま、急かさなかった。俺が言葉を探すのを、ただ、じっと待っている。誰かに、こんなふうに待ってもらったのは、初めてかもしれなかった。
「……夏の、体育倉庫の、奥の方」
ぽつりと言った。
埃と、古いマットと、金属と、汗が全部混ざって、しんと熱いあの感じ。誰も入らない、いちばん奥。
ノノの手が、止まった。
それから、猛烈な速さでペンが走った。
「『二番・夏の体育倉庫の奥の方』。……先輩」
「なに」
「先輩、名付けの才能があります」
「いらない才能だな」
そう言いながら、俺は、ちょっとだけ、悪い気はしていなかった。
名前をつけると、不思議なことが起きた。ただの「くさい汁」だったものが、急に、一つずつ、顔を持ちはじめる。二番は、二番の匂い。一番とは、違う。そう思うと、自分の右手が、ほんの少しだけ、前より好きになった。
ノノは、書いたばかりの行を、指で、そっとなぞっていた。宝物の目録でも読むみたいに。
空き教室の窓の外が、だんだん赤くなってきた頃。
俺たちは、ノートを二ページぶん埋めていた。一番、二番。それぞれに、俺が真剣に考えた名前がついている。ノノは、一つ書き足すたびに、幸せそうな顔をしていた。
変な放課後だった。
でも、悪くない放課後でもあった。
帰り支度をしながら、俺はふと、窓の外に目をやった。
校門の脇、街灯の下に、人が立っていた。
黒い服を着た、細い男だった。こちらを──正確には、この教室を、じっと見上げている。距離があるのに、視線だけが、やけにはっきりと感じられた。目が合ったような気がして、俺はまばたきをした。
その一瞬で、男はいなくなっていた。
「先輩?」
ノノに呼ばれて、我に返る。
「どうか、しました?」
「……いや」
俺は、窓から目を離した。
気のせいだ、と思うことにした。誰かが、たまたま、あそこに立っていただけ。そう思うことにした。
でも、後から知ることになる。
あの日、あの街灯の下にいた男は、ある組織の使いだった。
世界を、清潔に、無臭に、均そうとしている連中。彼らにとって、俺のスキルは──世界でいちばん、消し去りたい汚点だったのだ。
▼次回予告
次回、無敵防御の百目鬼剛が「再戦」を申し込んでくる。ただしキヨシ、そもそも一度も戦った覚えがない。
▼今日の臭汁一品
二番・夏の体育倉庫の奥の方
ノノ評:「保存対象。今日の一番のお気に入り」
※感想で「二番、保存する? 削除する?」教えてくれると嬉しいです。




