第一話 手からくさい汁が出るだけ
「臭いだけで、世界は詰む。」
この世界の人間には、全員スキルがある。
炎を出す。傷を治す。目を合わせた相手を虜にする。便利で、派手で、みんなに羨ましがられるやつだ。
俺のスキルは、手からちょっとくさい汁が出る。それだけ。
スキル判定の日は、朝から講堂がそわそわしていた。
十七歳になる年に、一人ひとり、自分がどんなスキルを持って生まれたのかを知る。人生でいちばん大事な日、みたいな顔をしている奴が多い。実際そうなんだと思う。ここで出た文字ひとつで、この先が決まる。将来も、稼ぎも、誰と並んで歩けるかも。
俺はというと、あんまり緊張していなかった。
というのも、自分のスキルがどんなものか、なんとなく見当がついていたからだ。小さい頃から、緊張したり、慌てたりすると、右手のひらにじわっと汗みたいなものが滲む。それが、ちょっと、いや、それなりに、くさい。母さんはそのたびに窓を開けた。妹には「くさ兄」と呼ばれている。たぶん今日、その正体に名前がつくだけだ。
壇上には、大人の腕くらいある水晶玉が据えられていた。手をかざすと、そいつの持つスキルの名前が、宙にふわりと浮かぶ仕組みらしい。名前を呼ばれた順に、みんな前へ出ていく。
「『火炎放射』!」
浮かんだ文字に、おお、と講堂がどよめいた。呼ばれた男が、照れたような、得意なような顔で拳を握る。
「『完全治癒』!」
これにもどよめき。将来は病院に引っ張りだこだ、なんて声が近くの席から聞こえた。前へ出ていく奴の背中が、みんな少しだけ誇らしげに見える。
順番が、じりじりと近づいてくる。
俺の前の席の女子は、手をかざす前から指先が震えていた。「うまくいきますように」と小さく呟いている。俺はその後頭部を見ながら、ぼんやり考えていた。うまくいく、ってなんだろう。派手なスキルが出ること、なのかな。だとしたら、俺のはたぶん、うまくいかない側だ。
でも不思議と、それが嫌じゃなかった。
「清水キヨシ」
名前を呼ばれた。
立ち上がって、壇上へ上がる。水晶玉は近くで見ると、中で薄い光がゆっくり渦を巻いていて、少しきれいだった。俺は右手を、そっとかざす。
てのひらに、じわ、と滲むものがあった。ああ、緊張してるんだな、と他人事みたいに思う。
文字が、浮かんだ。
『悪臭分泌』
しん、とした。
その一拍のあいだに、俺は浮かんだ文字を、上から下まで丁寧に読んだ。悪臭。分泌。そして、丸括弧の中に、マイナー。ただの悪臭ですらない。しょぼい方の悪臭、ということらしい。
最初に笑ったのが誰だったのかは、分からない。
でも一人が噴き出すと、それはさざ波みたいに広がった。前の方から後ろの方へ、笑いが席を伝っていく。堪えきれない、という感じの笑いだった。マイナー、という括弧書きが、どうやら決定打になっている。
「うわ、ハズレってあるんだ」
「あいつ一生日陰じゃん」
声は、隠す気もなく耳に届いた。
学年で一番の魅了スキル持ちだと噂の冴島レイラが、長い髪を指で払いながら、こちらを一瞥した。視界に入れる価値もない、というより、視界に入れたことすら覚えていないだろう、という目だった。
俺は壇上に立ったまま、その笑い声を、頭からかぶっていた。
──で、傷ついたか、というと。
別に、そんなことはなかった。
むしろ、ちょっといいな、と思っていた。だって、火炎放射はこの講堂に何人いる? 三人は見た。完全治癒も二人いた。悪臭分泌は、俺だけだ。二百人いて、俺ひとり。唯一無二。世界にひとつしかない。
悪くない。全然、悪くない。
俺はそう思いながら、笑われつづける講堂を、のんびり眺めていた。たぶんこの温度差が、周りをいちばん困らせるということには、まだ気づいていなかった。
異変が起きたのは、俺が席に戻ろうと壇を降りかけた、そのときだ。
どん、と足の裏から突き上げるような震動があった。
次の瞬間、講堂の側面の壁が、内側に向かって弾け飛んだ。石と埃が噴き出し、「うわっ」「きゃあっ」と悲鳴があがる。粉塵の向こうから、のっそりと、何かが姿を現した。
牛を三頭ぶんくらい重ねた図体。判定用にと地下で飼われていた実験体の魔獣が、鎖を引きちぎって上がってきたらしい。口の端から涎を垂らし、そこに紫色の煙が混じっている。ひと睨みで、前列の生徒が数人、腰を抜かして座り込んだ。
講堂が、一瞬で地獄になった。
逃げ惑う足。折り重なる悲鳴。さっきまで自分のスキルを誇らしげにしていた奴らが、みんな出口へ殺到する。火炎放射の男が炎を放ったが、魔獣の分厚い皮膚は焦げただけで、かえって相手を苛立たせた。完全治癒は、そもそも攻撃の役に立たない。冴島レイラが魔獣と目を合わせようとして──魅了が、けものには効かないと悟った顔で、後ずさった。
派手なスキルが、ずらりと揃っていた。
なのに、誰も、この一頭を止められない。
その膠着の真ん中に、一人だけ、真正面から立ち塞がった男がいた。
「俺の壁は、破れねえ!」
体格のいい男が、両腕を交差させて、魔獣の突進を受け止めた。無敵防御が売りの、百目鬼剛。確かに、彼の体には傷ひとつ付いていない。突進の衝撃を、真正面から殺しきっている。
すごい。すごいんだけど──それだけだった。
剛は受け止めることはできても、そこから押し返せない。魔獣も無敵の壁を破れないが、剛を退かせることもできない。二つの力が正面でぶつかったまま、どちらも動けない。剛の顔が、みるみる赤くなっていく。
「て……めえ……どけっ……!」
どかない。魔獣は退かない。剛も退けない。
周りは誰も手を出せず、ただ距離を取って見ている。強いスキルほど、この場面では使いどころがない。攻撃は効かず、魅了も通じず、治癒する相手は誰も倒れていない。全員の切り札が、綺麗に、宙に浮いていた。
俺は、その光景を、壇の端からしばらく眺めていた。
それから、小さくため息をついた。
しょうがないな、と思った。
前に出る。ざわ、と近くの何人かが「何する気だ」という顔をしたが、気にしない。剛と魔獣が押し合う、その脇まで歩いていく。
右手を、軽く振った。
てのひらに、じわ、と滲むものがある。今日はよく滲む。緊張しているんだろう。悪くない量だ。
「じゃ、出すね」
一滴。
それが、魔獣の鼻先に、ふわりと届いた。
時間が、止まったように感じた。
紫の煙を吐きつづけていた魔獣が、ぴたり、と動きを止めた。剛を押していた力が、ふっと抜ける。魔獣の大きな目が、泳いだ。何が起きたのか分からない、という顔だった。次に来たのは、混乱ですらなかった。もっと根っこの、本能の部分。生き物が、理屈より先に「無理だ」と判断したときの、あの反応。
魔獣は、びくん、と全身を震わせると──回れ右をした。
そして、来た穴へ向かって、一目散に逃げ帰っていった。涎を撒き散らし、二度とこちらを振り返らずに。壁の穴の向こうへ、その巨体が消えていく。
あとには、しん、とした講堂が残った。
さっきの、笑い声のしんとは、種類の違うしんだった。
剛が、交差させた腕を、下ろせないまま俺を見ていた。
「お、おい……いま、何を、した」
「臭かったんだと思う」
俺のこれは、攻撃じゃない。斬りつけたわけでも、燃やしたわけでもない。だから、硬い防御も、状態異常を防ぐ耐性も、たぶん意味がない。生き物が本能で「これは無理だ」と感じる匂い。それだけ。しかも、強くて、鼻のいいやつほど、よく効く。
気づけば、講堂にいる全員が、俺から一歩、下がっていた。
助かった、という顔と、近寄りたくない、という顔が、半分ずつ混じっている。
まあ、そうなるよな、と思う。慣れている。世界にひとつしかないスキルっていうのは、つまり、周りに一人も仲間がいないってことでもある。
ただ、一人だけ。
みんなが下がるのと逆に、まっすぐ歩いてくる人影があった。
小柄な女子だった。俺より年下──たぶん、判定にはまだ二年ある学年だ。今日の判定の準備や後片付けを手伝う下級生の係が何人か駆り出されていて、その一人らしい。人混みを縫って、俺の前まで来ると、鼻先を近づけて、ふん、ふん、と匂いを嗅ぐ。そして、顔を上げた。
その目が、きらきらと光っていた。
「今の」
「……え」
「今の、保存します」
朽木ノノ、と名乗ったその子は、俺の右手を両手で握って、まるで宝物でも掘り当てたみたいな顔をしていた。周りが総出で逃げ出した匂いを、この子だけが、うっとりと嗅いでいる。
この日から、俺のくさい汁を、世界でただ一人ありがたがる、変な後輩ができた。
──それが厄介の始まりだったと気づくのは、もう少し後の話だ。
騒ぎがひととおり収まって、講堂を出ようとしたとき。
判定に立ち会っていた年配の教官が、俺の背中に、ぽつりと声をかけた。
「……その匂い」
振り返る。教官は、俺の右手のあたりを、じっと見ていた。何かを思い出そうとするような、それでいて、思い出したくないような、複雑な目だった。
「昔、そっくりのを嗅いだことがある」
「……はあ」
「あの人と、同じだ」
あの人、が誰なのか。
教官はそれ以上、言わなかった。
そして俺も、そのときはまだ、何ひとつ知らなかった。
▼次回予告
次回、押しかけ弟子・ノノが臭汁の記録を始める。ただしキヨシ、記録される汁の名付けに、なぜか無駄な本気を出す。
▼今日の臭汁一品
一番・|飲み残して三日たった牛乳パック《白い罪》
ノノ評:「保存対象」
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