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リコはハッと顔をあげた。
地下留置場の凍てつくような冷気の中で、彼女の繊細な耳条が捉えたのは、日常の静寂を無慈悲に切り裂く異音だった。
先程から地響きが鳴り響き、陣太鼓が打ち鳴らされている。ドシン、ドシンと地響きが鳴るたび、強固な石造りの天井から埃がパラパラと落ちてきた。遠く、おそらく王都の中央広場の方角からは、城の大鐘は打ち鳴らされ続け、地鳴りのような咆哮が風に乗って響いてくる。
囚われの身の上のリコにも戦が起きていることだけは分かった。
「一体、なにがどうなっているの……?」
リコがつぶやいたその時だった。留置場の廊下に足音が鳴り響く。それは普段の看守たちの気の抜けた足音ではなかった。固い軍靴が鳴り響く音にリコの体に力が入る。
不吉な金属音が近づき、鉄格子の目の前に二人の兵士が現れた。一人はわずかに返り血を浴びたのか、顔や体の一部に赤い飛沫が飛んでる。その目は異様な血走りに満ち、尋常ならざる殺気を放っていた。リコは眉を顰めた。
「一体外で何が起こっているの」
リコの問いを一瞥し、兵士たちは何も答えなかった。ただ人形のような無機質な手つきで、ガチャガチャと錠前に大きな鍵を突っ込んでいる。
ガシャンと派手な音を立てて錠前が開いた。重い鉄扉が不気味な軋み声を上げて開かれ、身をすくめたリコの牢の中へ、大股に無表情な兵士が入ってくる。その手には、すでに抜かれた白刃が握られていた。
「な、なに……?」
「立て!」
兵士に大きな声で怒鳴られ、リコは無理やり引きずり立たされた。その容赦ない力に掴まれた腕が痛む。
「っ」
「出ろ、さっさと出るんだ!」
何をそんなに急いでいるのか、兵士たちはせき立てるようにしてリコを牢から出した。言葉を交わす余裕すら惜しむかのように、訳もわからず半ば引きずられるようにしてリコは牢から出る。
「歩け!歩け!」
「や、一体どこへ行くの!」
「うるさい、ついて来い!」
大人の男、それも兵士たちの力にリコが叶うはずもなかった。乱暴に腕を引かれながらリコは兵士達にどこかへ連れて行かれる。石造りの冷たい回廊を、躓きそうになりながら必死に足を動かす。
兵士たちは通常の入口ではなく、裏口のような場所から建物を出た。そこは城の敷地の端に位置する、手入れの行き届いていない寂れた中庭だった。
留置場の建物を出ると外の戦いの音が激しくあちらこちらから聞こえてくる。空を切り裂く矢の風切り音、金属が激しくぶつかり合う音、そして人間の怒号と悲鳴。
「城が、攻められているの?」
リコが兵士に言うと、小馬鹿にしたように一人の兵が笑う。その笑みには、底知れない残酷さと、どこか投げやりな諦めが混じっていた。
「今は己の心配をしたらどうだ、今からお前は死ぬんだぞ」
「……?」
一瞬、間を置いてリコはポカンとその兵士を見上げた。
男が何を言ったのか、その言葉の持つ意味がすぐには脳に届かなかった。しかし、ギラリと光る剣先が自分の細い首筋に向けられた時、ようやく理解した頭の中で恐怖が渦巻き始める。みるみるリコの表情が硬くなった。
「その辺で構わん、跪かせろ。俺が切る」
ペンバーからの冷酷な命令をただ遂行するためだけに、男は淡々と告げた。外の砂利の上に、力ずくでねじ伏せられるようにしてリコのは両膝をついた。尖った石が膝に食い込み、痛みが走る。
「い、嫌っ……!!」
激しく身を捩ってリコは抵抗する。今回ばかりは諦めるわけにはいかなかった。リコの胸の奥で、真っ赤な復讐の炎がパチパチと音を立てて燃え上がる。
まだ、リコはペンバーに一矢報いることすらできていないのだ。何もかもを奪われ、このまま無力な小娘として犬死にするなど、到底受け入れられるはずがない。
死ぬのなら、奴もろとも地獄に連れて行かねばならない。
「離してっ」
「おい、さっさとおとなしくさせろ」
「くそ」
激しく暴れるリコに兵士は手間取っているようだった。ペンバーの狼狽が軍の末端にまで伝染していたのだろう。彼らは甘く見たのか、それとも急いでいたのか、リコの手を縛ることすらせず牢から引きずり出してきたのだ。それが、彼らの致命的な落ち度だった。
リコを押さえつけようとする男の手に、とうとう彼女は噛みついた。狂犬のような歯が男の親指の付け根に深く食い込む。
「あああっ!この女!」
激しい歯型を肉に刻まれた兵士が悲鳴を上げ、反射的に空いた左手を振り抜いた。
ガツンとリコのこめかみに激しい痛みが走る。殴られたと気づいたのは、体が地面に吹っ飛び、頬をしたたかに打ちつけてからだった。
口の中に鉄の味が広がり、視界がブレる。殴られた衝撃でまともに身体に力が入らない。世界がぐにゃりと歪み、立ち上がることができない。その瞬間を逃すものかとでも言うように一人の兵士が腰の剣を抜いた。
「う、あ」
地面に倒れ込み、砂にまみれてリコが呻き声をあげる姿を冷たい瞳が見下ろしている。
動かない、逃げられない。
ザ、ザ、と兵士が砂利を踏み締めながらリコに近寄る。
「悪く思うなよ、おひいさん」
冷たいその言葉を皮切りに、兵士が剣を振りかぶった。
白刃が午後の鈍い光を反射して、死の軌跡を描こうとする。
(ああ、私はまだ、何もやり遂げていない)
激しい後悔と悔しさがリコの身を貫く。あの日、自分の目の前で命を奪われたクリスの顔が脳裏を過る。
ペンバーに一矢報いることができるなら、あいつに思い知らせてやることができるなら、何だって差し出す。私の命だろうが、魂だろうが、悪魔にだって売り払ってやる。
見開いたリコの瞳にキラリと白羽が光る。
(これで、終わりなんて)
走馬灯のように駆け巡る記憶の終着点に、呆れたように笑うジルの表情が過った。いつも不器用で、口が悪くて、それでも誰よりも真っ直ぐに自分を守ろうとしてくれた、あの男の顔。
(ごめんね、ジルさん)
兵士の冷たい刃がリコに振り下ろされようとしたまさにその瞬間、視界の端にキラリと鈍色が閃いた。




