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 一方、ジルは事務室でシャルと仕事をしていた。

 城内が不気味な静けさに包まれる中、二人が黙々と書類に埋もれていたその時、城の鐘が鳴り響いた。


 ゴオォォォン、ゴオォォォンと、腹の底を揺らすような重低音が、石造りの室内にまで容赦なく染み込んでくる。


「おい、……大鐘の音だ。まさか、」


 シャルが弾かれたように書類の山から顔を上げた。ペンが手からこぼれ落ち、インクが地図を黒く汚していく。

 ジルも驚いて顔をあげる。続いて大鐘の音を聞いた城下の半鐘が一斉に鳴り響き始めた。カンカンカンと、高音の警鐘が重なり合い、地獄の合唱を奏でる。戦を知らせる警鐘の鐘の音だ。


「ええ、北方の軍勢が押し掛けてきたのでしょう」


 ジルの声は、驚くほど冷静だった。


「じゃあ噂はマジだったってことかよ……襲撃に備えて街道に主力部隊は遠征してたはずだろ?どうなってんだ……」


「こうしている場合ではありません。すぐに我々も駆り出されるでしょう!鎧を身に付けなければ!」


 二人は立ち上がってロッカーへ走った。普段の制服は事務室にだらしなく放り込んであるのだが、戦時の装具一式はロッカーに置いてある。武器庫へ行って武器の調達もしないといけないだろう。


 鎧の金具を締めるシャルの手は、微かに震えていた。しかし、ジルの心臓は早鐘のように鳴っていた。恐怖ではない。

 とうとうはじまる。とうとう戦が始まるのだ。


 すべては、ジルの放った一本の密書から始まっていた。

 さらに、北方の街道沿いに奇襲攻撃が仕掛けられていることを、ジルはアンジに知らせていたのだ。


 ペンバーが街道に伏兵を置くという情報を、事前に北方に流した。すでにその可能性を予測していたアンジは鎮西の盟友に声をかけ、南進をせずに西の領土を周り、主力の軍勢はわざわざ遠回りをして隙をついたのである。

 ペンバーの網の目を完全に迂回し、無傷のまま関門を爆破して王都へと突入したのだ。


 北から下る街道には陽動作戦の軍が南進している。今頃、ペンバーの主力部隊は影を相手に空振りをしているはずだった。


 王都中にあちこちから鐘の音が鳴り響き、城下は異様な雰囲気に混乱していた。

 兵士の怒号と民の叫び声、馬のいななきが混ざり合い、巨大な濁流となって王城へと押し寄せる。


 城下の民衆が難を逃れようと城中に雪崩れ込み、戦時用の地下講堂が開放されて民はそこへ避難している。城門はすぐに閉じられ、逃げ遅れた民衆たちは東に聳える山へと避難を始めた。


 ジルは混乱に乗じて抜け出し、西棟へ走った。


 鎧がガチャガチャと鳴る中、彼の頭脳は次の命題を解いていた。アンジが来たとしてもギラス将軍を人質に取られては意味がないのだ。

 敵が総崩れになったとき、ペンバーが真っ先に老王の首を撥ねることは目に見えていた。


 しかし、今であればペンバーもギラス将軍を手中に収めていると油断している。戦の準備に気もそぞろになっているだろう。今がチャンスだった。


 ジルはこの数日のうちにいざという時に備えて揃えておいた町民服を大袋に入れて担いで走る。

 西棟の最上階。ギラス将軍の一団が幽閉されている部屋に窓はない。だが、暖炉の換気用に通風口が設けられている。

 古い城の構造を知り尽くした兵士の知だった。大人が通れる大きさではないが、物を渡すには十分の大きさである。


 ジルは埃まみれの天井裏に這い入り、細い梁を伝って目的の真上へと辿り着いた。


「おい、上だ」


 ジルはメモをつけると狭い天井裏を通り部屋の通風口に服と武器を放り込んだ。

 闇の向こう、狭い隙間からずっしりとした短剣と衣服が滑り落ちていく。すぐに、将軍の部屋から返事が返ってきた。


「ジル殿か……!」


「はい、そうです!服を着を着替えて脱出してください。地下講堂に民衆が避難していますので、そこへ紛れ込めます!」


「すまん、礼を言うぞ。こちらも皆手練れを連れてきておる。これだけ武器があれば自力で脱出するゆえ、そなたはヒナと落ち合え!」


「はい!」


 ジルはまた狭い天井裏を慎重に這い戻った。

 埃を払い、自らの鎧の汚れを気にする暇もなく、次の戦場へと足を向ける。アンジが乗り込んでくると同時にヒナと落ち合い、捕らえられているリコを助け出すことになっている。


 それが彼に課された最も重要な任務だった。


 城壁に兵士達が駆り出され、弓隊が準備を始めていた。

 それを横目に見ながら、ジルは走る。ガチャガチャと鎧がうるさく鳴り響いた。

 一瞬脱いでしまいたい想いに囚われるが、この重たい鎧を身に付けているからこそ、兵士の特権として城内を自由に走り回れるのだ。怪しまれることなく、ジルはヒナと落ち合う予定の場所に走った。


 北東の広い庭の垣根の向こうに、隠れるように小屋がある。

 ジルは垣根のそばにある小さな掃除道具を置いてある小屋の後ろに回った。そこに、ヒナは居た。


 彼女は鋭い目つきのまま、暗器を懐に忍ばせて待機していた。


「ヒナ!来てくれてありがとうございます!」


「友のためなら、当然のことです!」


 短い言葉の中に、リコを救うという揺るぎない決意が満ちている。


「急いで行きましょう。じきにアンジさんも到着します」


「ええ」


 リコのいる留置場は城の南西に位置する場所にあり、ここからは程遠い区画にある。

 城内の防衛線が完全に構築される前に、迷路のような回廊を突破しなければならない。二人は影のように地を這い、駆け出した。


 ジルとヒナが走っていると、城下から鬨の声が響き渡った。

 地平線を覆い尽くすかのような、数万の男たちの怒号。とうとうアンジ達の軍が辿り着いたのだ。心臓を揺らすような陣太鼓の音が城壁を越えて届いてくる。ズシン、ズシンと、大地を殴りつけるような重低音が王城の石壁を震わせた。

 城下に陣をひいたアンジが城門の前で馬に乗り、立っていた。


 その姿は、極北の毛皮を纏い、大剣を背負った、まさに戦鬼そのものであった。彼の背後には、凍てつく北方の大地で鍛え上げられた、漆黒の鎧を纏う精鋭たちが隙間なく並んでいる。アンジは城壁を見上げ、腹の底から声を張り上げた。


「陛下を殺し、王位を簒奪せんとする反逆者どもよ!城門を開き、我が軍門に降れ!今であれば命だけは救ってやろう!」


 城壁の上から、ペンバーの配下である守備隊長が声を返した。


「愚か者よ!王位を簒奪せしめんとするはそちらであろう!ギラス将軍は我が手中にある!一歩でも動けばその首をはねるぞ!」


 人質を盾にした卑劣な脅し。北方軍がどよめいた。

 しかし、その動揺はすぐに激しい怒りの怒号へと変わる。皆口々に怒りをあらわにし、アンジも毛を逆立てている。


 アンジはすべてを承知していた。ジルの手によって、すでに老王が檻から解き放たれていることを。アンジは振り返ってその手の剣を掲げた。

 銀色に輝く巨大な刃が、冬の鈍い光を反射して冷たく煌めく。


「北方の強者どもよ!我らは国を守る番人、誇り高き黒城の守り手!今や敵は王城にあり!国を守るのだ!義は我らにあり!王位を継承するは亡き第三王女の娘……そして我が娘、リコである!この手で反逆者どもに地獄を見せてやるのだ!陣触れだ!全軍突撃せよーっ!!」


 その瞬間、全軍の咆哮が王都の空を割った。

 王位継承者、リコ。その名が大義名分として全軍に知れ渡り、兵たちの士気は最高潮へと達する。


 低い陣触れの笛の音が鳴り響いた。


 空気を引き裂き、陣太鼓の鼓動がさらに速く打ち鳴らされる。

 地鳴りのような足音が響き、軍勢が鬨の声をあげ城門へ向かって突撃を始めた。

 西の通用門も、東の通用門も同様に大軍が攻めてくる。ペンバーの裏をかき、全方位から城壁へと取り付く北方軍。


「弓隊構え!…………射てーっ!」


 城壁からの号令とともに、黒い矢の雨が空を覆い尽くした。

 火矢が飛び交い、激しい金属音が響き渡る。リコを救うため、そして腐り果てた大逆人を討つため、とうとう戦が始まった。






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