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夢を見た。
それは、遠い日の記憶が織りなす、ひどく鮮明で切ない夢。
『リコ。君は本当に、絵を描いている時が一番楽しそうだ』
耳に心地よい、鈴を転がすような少年特有のソプラノがリコの名を呼んだ。
陽だまりの中で優しく微笑むその少年は見事な金髪を持っていた。絹糸のように細い髪が、うららかな風に揺れている。彼は、かつてリコが身を寄せていた孤児院の、すぐ近所に住んでいた幼馴染だった。
少し垂れた目尻と、その下にポツリと刻まれた泣き黒子が妙に印象的な、誰もが見惚れるほどに美しい少年——クリス。
面倒見が良く、いつも孤独だったリコの隣に寄り添っては、彼が拾ってきた枝を使って地面に絵を描くリコの姿を、飽きもせず眺めていてくれた。リコにとってクリスは、荒涼とした幼少期における唯一の光であり、世界そのものだった。
だが、彼の家もまた、明日のパンにも事欠くほどに貧しかった。
彼が十四歳になる年。クリスの両親は、我が子を「奴隷」として商人に売り払った。
類稀なる美貌を持ったクリスは、人買いの市場で格好の標的となった。冷酷な仲介業者たちの手を経るたびに、その価値は跳ね上がり、法外な高値で闇の貴族たちの間で取引されたという。
「クリス……」
夜明け前の薄明かりの中。狭く、絵の具の匂いが充満した寝室で、リコは弾かれたように目を覚ました。
頬を伝う冷たい涙を、寝間着の袖で乱暴に拭い去る。心臓が早鐘を打っていた。
「待ってて、クリス……私が、絶対にあなたを助けてあげるから」
リコは小さく、しかし鋼のような決意を込めて呟いた。
その日の午後、リコは街の高台にそびえ立つ白亜の豪邸の前に佇んでいた。
リコが描く独特の色彩と確かなデッサン力に基づいた絵画は、流行に敏感なお金持ちのご婦人方の間でも大変な人気を博していた。そのため、こうして定期的にパトロンとして呼びつけられることがしばしばあるのだ。
ギィ、と重厚な鉄製の正門が開く。
「お待ちしておりました、リコお嬢様」
出迎えたのは、ロマンスグレーの髪を一点の乱れもなくぴっちりと後ろへ撫でつけた、老齢の執事だった。仕立ての良い黒い燕尾服を完璧に着こなし、その背筋は定規をあてたかのようにシャッキリと伸びている。
彼の先導で、リコは広大な庭園へと足を踏み入れた。
このお屋敷の奥方は、リコの才能を初期から認めてくれている大得意先だ。付き合いが長いため、この堅物そうな執事ともすっかり顔見知りになってはいたが、未だに気軽に世間話を振れるような雰囲気ではない。彼の無駄のない洗練された動作と威厳は、そのままこの屋敷の格調高さを物語っている。リコはいつも通り、借りてきた猫のように大人しく、彼の斜め後ろを黙ってついていくしかなかった。
美しく剪定されたバラのアーチをくぐり、庭園の奥にひっそりと佇む大理石の東屋へと案内される。どうやら本日の会合は、この開放的な空間で行われるようだった。
円卓の席についた婦人は、上質な絹の扇で口元を優雅に隠しながら、はずんだ声を上げた。
「いらっしゃい、リコ。よく来てくれたわね」
「奥方様、ご無沙汰しております。お招きいただき光栄です」
リコが少し緊張しながら、人差し指で分厚い眼鏡のブリッジをくいと押し上げると、扇の向こうで奥方の目元が愉しげに細められるのが分かった。
「ふふ、あなたは相変わらずね。その、芸術家然とした飾らない姿、私は嫌いじゃないわ。……さて、実はね、今日はあなたに折り入って頼みたいことがあって呼んだのよ」
婦人が扇を小さく動かして合図を出すと、背後に控えていたロマンスグレーの執事とメイドたちが、一礼して速やかにその場から下がった。
遮るもののない、二人きりになった静かな空間。途端に、先ほどまで気品に満ちていた奥方の態度が、どこか少女のようにモジモジとしたものへと変わる。彼女は周囲を一度ぐるりと見回してから、自身の高価なドレスの袖から、一枚の絵をごそごそと取り出した。
「じ、実はね……」
おずおずと差し出されたその絵を、リコは身を乗り出して覗き込んだ。
それは、燦然と輝く太陽の下、肌を焦がすような汗を眩しく光らせながら、枝葉の手入れをする一人の若き庭師を描いた作品だった。躍動する筋肉、爽やかな笑み、みなぎる野性的な魅力が、画面全体から溢れ出している。
(あ、これは……!)
リコには、強烈な覚えがあった。これはいわゆる「力作」だ。
先日、モデルを務める青年ジルに見つかり、「不審者として捕まりますよ!」と下絵を半ば強引に取り上げられそうになりながらも、リコが執念でなんとか仕上げた、あの王城の庭師の絵である。背景の庭園の描写について、ジルから「城の防犯上の機密に関わる」とコッテリ搾られたため、完成版の背景はリコの誇る「妄想と美化」によって完璧にカバーされ、実際の王城とは似ても似つかない楽園のようになっていた。
「私、この方の絵が、どうしても頭から離れなくて……とっても気に入ってしまったの。ねえリコ、この絵の『原画』を、私に譲っていただけないかしら?」
奥方の熱を帯びた懇願に、リコは申し訳なさそうに眉根を下げた。
「大変ありがたいお話なのですが、奥方様……その絵は、発表直後から大変な人気を博してしまいまして、原画はすでに別のコレクターの方へ売れてしまっているのです」
リコの絵は、完成するとまず親しい版画師の手に渡る。そこで精密な版画が作成され、複製された廉価版の絵が、市場で大量に売り出される仕組みになっていた。世間の一般市民が手にするのは、この複製画である。
しかし、リコが直接筆を執った「原画」は、世界にたった一枚しか存在しない。当然、廉価版とは一線を画すほどの、恐ろしい高額で取引されるのが常だった。
「そう……もしかしたら、と思っていたけれど、やっぱり手遅れだったのね。本当に残念だわ」
婦人は目に見えてがっかりとした様子で、豊かな胸元をなぞりながら肩を落とした。
「ご期待に沿えず、本当にすみません……」
リコが肩をすくめて恐縮していると、婦人は再び辺りに誰もいないことを確認し、パチン、と大きな音を立てて扇を閉じた。
扇の向こうから現れたのは、ふっくらとした輪郭を持つ、どこか親しみやすい、人の良い瞳だった。彼女は身を乗り出し、声を潜めて言った。
「なら、あなたに新しく『依頼』をするわ。この同じ庭師の方をモデルにした、新しい新作を描いてちょうだい。今度は別の角度からの構図が良いわね」
「あっ……」
リコは困ったように頬を掻いた。
「その、庭師の方の肉体美や、働く男としての魅力は私自身も重々承知しておりますので、新作を描きたいのは山々なのですが……実は私、王城への正規の通行許可証を持っていないもので、これ以上の新作を描くことができないんです」
「まあ? それなら、今までのあのお城の絵は、一体どうやって描いていたの?」
奥方が純粋な疑問を投げかける。リコは周囲を気にするように視線を泳がせながら、ばつが悪そうに笑った。
「えへへ……こ、こっそり裏の生垣の隙間から、城内に忍び込んでおりまして……その度に、恐ろしい顔をした衛兵さんに見つかっては、首根っこを掴まれてつまみ出されているんです」
「あらあらあら!まあまあまあ……!」
驚きのあまり、奥方は上品な口をぽかんと少し開けて硬直してしまった。
リコは、この金持ち特有の嫌味なプライドがなく、時折こうしてあっけらかんとした素の表情を見せてくれる奥方の雰囲気が、以前からとても好きだった。
しばらくの間、婦人はポカンと口を開けたままリコの犯罪紛いの告白を咀嚼していたが、やがて何かを思い直したように、ふっと真剣な表情を浮かべた。
「そこを……そこをなんとか、知恵と勇気で潜り抜けて、新作を描いてはくださらない?もし引き受けてくれるなら、前金として、今ここでこれだけ出すわ」
婦人は、少しばかりはしたない様子で、リコの目の前に素早く「3本」の指を立ててみせた。
それは、通常の肖像画の依頼料の、実に3倍——いや、リコが贅沢をしてもお釣りがくるほどの、莫大な大金を意味していた。
もし、あのロマンスグレーの厳しい執事がこの場にいたならば、「奥様、そのような下品な交渉はお控えください」と、即座に苦言を呈されていたところだろう。幸いにも、今は二人きりだ。
提示された思わぬ超高額の報酬に、リコは瓶底眼鏡が落ちそうになるほど大きく目を見開いた。
王城への不法侵入が見つかれば、今度こそ地下牢にぶち込まれるかもしれない。ジルの恐ろしいお説教が、数日間にわたって続くかもしれない。だが、そんなリスクは、この大金を前にすれば微々たるものだった。
リコの出す返事は、最初から決まっていた。
「や、やりますわ!奥様!!このリコ、命に代えましても、あの庭師の最高に輝く一瞬を切り取って御覧に入れます!」




