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 前言撤回。王城の通行証がないから描けないなどという言い訳は、一瞬で霧の彼方へと消え去った。やはり、資金力のある富豪との取引は最高である。

 その後、詳細な構図の打ち合わせ(という名の、奥方の妄想の拝聴)を終え、リコはホクホクとした顔でお屋敷を後にした。懐には、ずっしりとした前金の入った革袋が収まっている。

「フン、フフン、フ~ン♪」と、上機嫌で鼻歌を歌いながらスキップ混じりに歩くリコの背中を、屋敷の門の脇から、例のロマンスグレーの執事がジットリとした、すべてを見透かしたような冷ややかな視線で見送っていたが、今のリコにはそんな視線すら心地よい風のようだった。


「待ってて最高の絵を描いてみせるから!」


 リコは夕日に向かって力強く帰路についた。



◇◆◇



「はあ、……」


 今日も今日とて、天井の低い兵舎の一角に、肺の底から絞り出したような溜息が響き渡った。

 ジルは重い身体を引きずるようにして、自分の執務机の椅子を引き、どさりと腰掛けた。書類の山に囲まれた机に向かうと、いつものように向かいの席に座る同僚が、面白がるような視線をこちらに向けて顔を上げた。


「おいおい、ジル。また一段と酷い顔をしてるな。……まーた、あのリコちゃんが城内に来てたんだって?」


「……ええ、今日はいつにも増してしつこかったんですよ。城の東翼にある薔薇園の陰から、まるで不審者のように庭師の動きを凝視していましてね。私が見つけるなり、あろうことか生垣を猛スピードで乗り越えて逃げ回るものですから、最後は力技で組み伏せて、手錠をかけて捕まえてやりました」


「あはは、手錠かよ!容赦ないな」


 ケラケラと大声を上げて笑う同僚に、ジルは額を押さえて深く頭を抱え込んだ。


「笑い事ではありません。知っての通り、彼女は前科が多すぎる。……それに、もう城のメイドたちの間でその情報が出回っているんですか?」


「知ってるも何も、さっき洗濯場のキッコちゃんが『ジルさんがまた可愛いお嬢さんを追いかけ回して、嬉しそうに捕縛していた』って噂してたぞ」


「誰が嬉しそうにですか……!」


 ジルは眉間の皺をさらに深くした。女たちのネットワークと、尾ひれがついて拡散する噂話の速度は、王城のいかなる情報部隊よりも恐ろしい。

 普段なら、リコの不法侵入も「またいつもの奇行か」と、内々に処理してつまみ出すだけで済んだかもしれない。だが、今日ばかりは話が違った。


 今日この王城には、隣国であるイデール王国から若き第一王子が朝から訪問していたのだ。しかも、その王子の母親は我が国の第二王女であった王妃である。つまり、両国の極めて強固な同盟関係を誇示するための、歴史的な会談が行われている真っ最中なのだ。

 ほんの些細な揉め事も、外交問題に発展しかねない。万事が筒がなく、完璧に過ぎるべき日。それが「今日」という日だった。


「笑っていられるのも今のうちだぞ、ジル」


 同僚は急に声を潜め、真剣な表情になって机に肘をついた。


「お前がリコちゃんを捕まえるために庭園を走り回っている間にさ、城の奥で『ちょっとした騒ぎ』があったんだよ。今朝から来てるだろ、例のイデール王国の王子」


 ジルの目がスッと細まる。


「……一体、何があったんですか?」


「どうやら、王子に出される予定だったお茶菓子に、毒が盛られていたらしい」


「え、……ええええぇぇえぇえ……」


 ジルの口から、情けない絶叫が漏れ出た。


「おい、声が大きい!……幸いなことに、完全に給仕される前、毒見の段階で微かな異変に気づいたから、王子本人にも事実は伏せられたままだ。今は極秘に処理と隠蔽が進められているらしいんだが……その件で、俺たちの直属の上司であるユーゲン兵長が、さっきから上層部に呼び出されている」


「あーーー……」


 ジルの口から出てくるのは、もはや言葉にならない、魂の抜けたような疲れ切った声ばかりだった。


 決定だ。


 何が決定したかといえば、それは言うまでもなく「残業」の二文字である。それもただの残業ではない。家に帰ることすら許されない、地獄の連日徹夜コースだ。

 隣国の王子に何事も無かったことは、不幸中の幸いどころか、この国の存亡に関わるレベルの奇跡だ。だが、これから兵団が総力を挙げて、秘密裏に、かつ迅速に犯人を捜査することになるだろう。そして直属の上司が呼び出されたということは、つまるところ、その厄介極まる隠密捜査の主導権が、自分たちの隊へと回ってくるということに他ならない。

 となれば、必然的に回ってくる書類整理や記録の作成は——


「……残業、確定ですね」


「しかも、しばらくは家に帰れないと思った方がいいな」


 二人の若き下っ端兵士は、まるで魂を吸い取られたかのように、同時にガックリと机に頭を垂れた。


「それにしてもさあ、」


 同僚は椅子の背もたれに体重を預け、天井の木目を斜め上に見上げた。





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