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リコは脱兎のごとく、アトリエの奥にある小さな簡易台所へと駆け込んだ。
大急ぎで薪をくべ、火を熾し、大鍋のスープを温め直す。
数分後、リコがおそるおそるテーブルへと運んできたのは、彼女が事前に宣言した通り、いや、宣言以上に「質素」なスープだった。
具材といえば、クタクタに煮崩れたキャベツの切れ端と、申し訳程度に浮いている薄切りの人参、そして塩と僅かな香草だけで味付けされた、透き通ったスープ。いや、質素という言葉を通り越して、はっきり言って「貧相」という表現が相応しい代物だった。
ジルはそのスープを前にしても、眉ひとつ動かさなかった。彼はトレイからスプーンを取ると、まんじりともせず、その貧相なスープを静かに口へと運び始めた。
リコはテーブルを挟んで向かい合わせに座り、スープを無言ですするジルの様子を、こっそりと瓶底眼鏡の奥から盗み見た。
カチャ、カチャ、とスプーンが皿に当たる小さな音だけが、気まずい沈黙の中に響く。彼の美しい白銀の髪がスープの湯気に揺れている。
「……ですから言ったじゃないですか。人に出せるような、おもてなしのスープじゃないって……」
あまりの居心地の悪さと羞恥心から、リコは唇を尖らせて不満を漏らした。そんなに黙って食べるくらいなら、文句の一つでも言ってくれた方がまだマシだった。
最後の一口を静かに飲み干し、ジルは完璧な所作でスプーンをお皿の脇へと置いた。
そして、真っ直ぐにリコを見つめた。
「リコ。あなたは……いつも、このような食事ばかり食べているのですか?」
その声は、低く、どこか重々しい。
リコは背筋に冷たいものが走るのを感じた。それは、彼女がかつて育った孤児院時代の厳格で一切の妥協を許さなかったシスターにお説教を喰らっているかのような、強烈な既視感だった。リコは思わず椅子の上でもぞもぞと身体を縮こまらせる。
「……そうですけど。何か問題でもありますか?私にとっては、これが日常ですし、お腹がいっぱいになれば何でも……」
「大ありです!」
ジルが珍しく声を荒らげ、テーブルを軽く叩いた。
「こんなスープ一杯で、一体どこから必要な栄養を取るつもりですか!明らかに栄養不足だ!あなたは最近、絵描きの仕事でそれなりに儲けているはずでしょう。なぜそんなに食生活を切り詰める必要があるのですか」
「それは……画材代とか、新しいキャンバスとか、珍しい顔料の購入とか、色々とお金がかかるんです。芸術家っていうのは、胃袋よりも脳に栄養を……」
「体は資本ですよ、リコ!」
ジルの説教は止まらない。彼はリコの細い腕や、心許ない肩のラインを指差した。
「もっとしっかり食べてください。だから、あなたはいつまで経っても、そんなに貧相で、風が吹けば飛んでいきそうな体つきをしているんです。もしあなたが栄養失調で倒れたら、あなたの描くその『素晴らしいインスピレーション』とやらは、一体誰が形にするのですか」
「す、すみません……」
テーブルの前で、リコはすっかり小さくなって、首をすくめた。分厚い眼鏡の奥の瞳をうるませて、ただジルの怒涛の正論に耐えるしかない。
ジルはそんなリコの姿をしばらく見つめていたが、やがて、本日何度目になるか分からない溜息を、深く、深く吐き出した。やはりこの男はリコの前では自らの感情を隠そうともしない。
沈黙がアトリエを満たす。
リコが「これからは、ちゃんと卵を入れるようにします……」とでも言おうとした、その時だった。
ジルの張り詰めていた表情が、ふっと緩んだ。彼は困ったように、しかしひどく優しい色を瞳に浮かべて、苦笑いをして見せたのだ。
「そんな顔をしないでください、リコ。私が悪者みたいではないですか」
途端に優しく、ゆるゆると柔くなった彼の声音にリコは弾かれたように視線を上げた。
ジルの顔には、先ほどまでの厳格なシスターのような厳しさは微塵も残っていない。ただ一人の少女を心から案じる、穏やかな青年の顔がそこにあった。
「色々と小言を言ってしまいましたが……あなたの作ったスープが食べられて、私はとても嬉しいですよ。職場の食堂の豪華な肉料理よりも、今の私にはこの温かいスープが必要だったようです」
ジルは立ち上がり、コート掛けから自分の上着を取って羽織った。そして最後にリコを振り返り、穏やかに微笑みかける。
「ご馳走様でした、リコ。招待してくれて、ありがとうございます」
「あ……」
リコは胸の奥が、じんわりと温かくなるよつな感覚を覚えた。先ほどまでの気まずさはどこへやら、彼女の顔にいつもの、そして今日一番の大きな向日葵のような笑顔が咲く。
「はい!ジルさん、お気をつけて!次は……次はもうちょっとだけ、お肉とか入れたスープを準備しておきますからね!」
「期待せずに待っていますよ、人気の女絵師さん」
今度こそ、几帳面な足取りでジルは部屋を出て行った。
パタン、と扉が閉まった後のアトリエは、先ほどよりもずっと温かく、そしてこれからの創作へのエネルギーに満ちあふれていた。リコは再びパレットを手に取り、幸福な余韻の中で、キャンバスへと向かった。




