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「な、なな、なんですか、ジルさん!?顔が近いです!」
ジルの切れ長の瞳がリコの瓶底眼鏡のレンズ越しに、真っ直ぐに彼女の視線を射抜いていた。彼は感情の読めない無表情のまま、一言一言を噛み締めるように言った。
「お腹がすきました」
「……へ?」
リコは完全に虚を突かれ、間抜けな声を上げた。
リコが呆然とした様子で立ち尽くしていると、ジルはさらに一歩、彼女のパーソナルスペースへと踏み込んできた。その圧迫感にリコは思わず後ずさりする。
「お・な・か・が・す・き・ま・し・た、と言ったのです」
「は、はあ……それは、その、大変ですね?もうこんな時間ですし……ええと、遅くまで私の身勝手な写生に付き合わせてしまって、本当にすみませんでした。お夕食をとりに、急いで宿舎へ帰られた方がよろしいのではないですか?今ならまだ、食堂も開いているでしょうし……」
怪訝な様子で、暗に早く帰るよう促すリコに対し、ジルはついに隠そうともせず、深い、深すぎる溜息を吐き出した。その表情には明確な「呆れ」と、少しの「憤り」が混ざり合っている。
「リコ、あなたという人は、本当に……」
ジルは腕を組み、冷ややかな視線をリコに注いだ。
「普通、ここは無償でモデルを務めてくれた相手に対し、お礼として夕食のひとつでももてなす場面でしょう。それともなんですか。リコ、あなたは私のことを、都合の良い身体だけの男として扱っているのですか?」
「は、はいぃぃっ!?」
リコの声が裏返った。都の片隅にある狭いアトリエには、あまりにも不釣り合いで刺激的な単語が響き渡る。
「私の肉体だけを貪るように観察し、用が済んだら『帰れ』と追い出す……なるほど、私はあなたにとって、ただの便利な絵の具の肥やし、あるいはタダで使える金ヅルでしょうか。悲しいことですね」
「ち、違います!決してそんな滅相もないですっ!ジルさんにはいつも、本当に感謝しているんです。私の拙い絵のために、貴重な時間を割いていただいて、足を向けて寝られないくらいに……!」
慌てふためき、両手をぶんぶんと振って弁明するリコを、ジルは逃がさないと言わんばかりの強い眼差しで見つめる。
「自分の本職である仕事の邪魔をされた挙句、ここへ来てみればタダ働き。おまけに飢え死にさせられそうになるなど、私は断固として反対します。労働に対する正当な対価を要求します!」
あまりにも力強く、かつ理路整然とした(?)宣言をされ、リコはぐうの音も出ずに眉根を下げた。
確かに、自分は彼の底無しの優しさに甘えすぎていたのかもしれない。ジルは朝から忙しなく働き回るしがない兵士だ。仕事が終わった後のこの貴重な夜の時間を、普通であれば同僚と賑やかに酒場へ飲みに行ったり、あるいは街の綺麗な令嬢とロマンチックに愛を語らい合ったりすることだって出来るはずなのだ。
そんな輝かしいプライベートをわざわざ投げ打って、リコのためにこの埃っぽくて絵の具臭いアトリエに足を運んでくれている。それなのに、自分は彼をお茶の一杯も出さずに追い返そうとしたのだ。
「……うう、ごめんなさい。確かに私が悪かったです。ジルさんの貴重な時間を奪っておいて、あまりにも不義理でした……」
リコはしょんぼりと肩を落とした。
「でも……でも、私、本当にまともな夕食なんて用意できないですよ?台所にあるのは、昨日から大鍋で適当に残った野菜を煮込んだ、ただのスープしか無いんです。そんな、ジルさんのような方に出せる立派なものじゃ……」
「それで結構です」
ジルは即座にリコの言葉を遮った。その声には、妙な頑固さが宿っている。
「もう、私の胃袋はあなたのスープを受け入れる準備を始めています。そもそも、誰のせいで私が昼食を食べ損ね、ここまで空腹を引っ張る羽目になったと思っているんですか」
「むう……」
そう言われると、反論ができない。今日の昼間の王城での我が儘なやりとりの記憶が微かに蘇ってきた。
「わかったら、今すぐにそのスープとやらを温めて、私の前に出してください。これ以上の遅延は、私の寛大なる精神の限界を超えます」
「は、はいっ!ただいま!」




