5
夕闇が、古い石造りの街並みをゆっくりと紫色のベールで包み込んでいく時間帯だった。
狭いアトリエの片隅で、リコは筆を動かしていた。衣服のいたるところに油絵の具のシミを作り、きっちりと編んだおさげ髪にはいつの間にか乾いたチタニウムホワイトの塊が付着している。彼女の分厚い、まるで瓶の底を覗き込むような丸眼鏡の奥では、ただ一つの色彩の世界だけがまたたいていた。
コン、コン、コン。
静寂を切り裂くように、ひどく等間隔で、几帳面なノックの音が響いた。
その瞬間、リコの全身の細胞が跳ねるように歓喜した。手にしたパレットナイフを危うく床に落としそうになりながら、彼女は喜び勇んで玄関へと駆け出す。鍵の掛かった重い木製の扉を、大した警戒もせずに勢いよく引き開けた。
「ジルさん!」
満面の笑みを浮かべ、弾むような声で出迎えたリコに対し、扉の向こうに立っていた青年――ジルは、端正な眉の間に深い縦皺を刻んだ。彼はリコの隙を突くようにして、スルリと滑らかな足取りで狭い玄関口から薄暗い部屋の中へと入り込んできた。
「リコ。まったく、相手が誰かも確かめずに扉を開けるなんて、一体どういう了見ですか。危険極まりないですよ」
低い、しかしどこか耳に心地よいテノールが、説教混じりに部屋の空気を震わせる。だが、リコはまったく堪えた様子もなく、ニコニコと相好を崩したままだ。
「だって、この時間にここへ来るのはジルさんだけですよ。ノックの音だけで、私には分かっちゃいます」
「それを世間では慢心と言うんです」
ジルは呆れたように息を吐き出すと、人差し指を伸ばして、リコの額を軽く小突いた。
「何かあってからでは遅いのですよ、まったく……もし私が、あなたを狙う凶悪な暴漢だったらどうするつもりですか」
「そんなこと言ったって、ジルさんは暴漢じゃないですし……あ、もしかして、私のことを心配してくださっているんですか?ふふ、ありがとうございます!ささ、立ち話もなんですし、こちらへどうぞー!」
ジルの大真面目な忠告を右から左へ聞き流しながら、リコはいそいそと彼の上着を受け取った。毎日のルーティンであるかのように手慣れた動作で上着をコート掛けに吊るすと、彼女はジルの袖を引いて、大きな窓際へと彼を案内した。
「ここに、こんな風に座ってくれますか? ああ、そうです。背筋は少しだけ緩めて……そう、そんな感じで、左手で頬杖をついて、何か遠い日の記憶でも辿っているような、物思いに耽っている雰囲気でお願いします。あ、そうだ。右手には、この古い本を持ってもらえますか」
言われるがままに、ジルは窓際に設えられた古びた椅子に腰掛けた。彼は文句を言うこともなく、リコの細かな指示に従って、ぼんやりとした表情でポーズを固定する。
こうしてリコの我が儘に付き合っている時の彼は、驚くほど従順で、物静かだった。
「うふふ、完璧です。素敵なインスピレーションが頭の中でどんどん湧いてきました!しばらくそのままの姿勢でお願いしますね……」
リコはキャンバスの前に駆け戻ると、一本の木炭を手に取った。
その瞬間から、彼女の視界から「現実」が消え去る。
カリカリ、と静かな音が狭いアトリエに響き渡る。リコは迷いなく、一心に線を紡ぎ出していった。彼女の分厚い瓶底眼鏡の奥の瞳には、実際の風景とは全く異なる輝かしい幻影が映し出されていた。
彼女の瞳が捉えているのは、薄暗い埃っぽい部屋の塗装の剥げかけた窓枠に座る一人の青年ではない。
それは、さわやかな五月の高天から降り注ぐ森の陽光を浴びながら、木々のざわめきを拝見に、一冊の古びた書物を片手に物憂げに佇む、どこか哀愁を帯びた異国の若き貴公子の姿だった。
リコの脳内で狂い咲く極彩色のイメージが、木炭の粉となって白いキャンバスへと定着していく。
一方で、ジルは手持ち無沙汰なまま、ボンヤリとリコの姿に見惚れていた。
普段はどこか抜けていて身の回りのことにも無頓着な少女が、ひとたび道具を握るとまるで神がかり的な熱量を放ち始める。炭で頬を黒く汚しながらも、その瞳だけは夜空の星よりも強く爛々と輝いている。ジルはその圧倒的な情熱の渦に巻き込まれる時間を、実はそれほど嫌っていなかった。
カチ、と遠くの街の時計塔が時間を告げる音が聞こえた。すっかり外は帳に包まれ、アトリエの外は一寸先も見えないほどに暗くなっていた。
ようやく、リコの手がピタリと止まった。
「——ふぅ」
肺腑の底から溜まった息を吐き出し、些か疲労を滲ませた様子でリコが腰を伸ばす。彼女の背骨が小さくポキリと鳴った。
「ありがとうございました、ジルさん。素晴らしいものが描けました。今日はもう、帰ってもらって大丈夫ですよ」
リコは満足げに、自らが描き殴った下絵を見つめながら言った。
ジルは窓枠からゆっくりと立ち上がり、長い間同じ姿勢で固まっていた筋肉をほぐすように、肩をぐるりと回した。骨が鳴る軽い音が聞こえる。
「……もう終わりですか」
「ええ、完璧です!あとはこの素晴らしい残像が消えないうちに、私の頭の中で想いを巡らせて、アトリエに籠って気ままに筆を走らせれば良いだけですから。ジルさんのおかげで、今シーズンの傑作が生まれそうな予感がします!」
リコは鼻歌を歌いながら、使い終えた木炭を片付け、パレットの整理を始めた。完全に自分の世界に戻り、ジルの存在を意識の外へと追い出し始めていた、その時だった。
ぬっ、と視界の外から、信じられないほどの近距離でジルの顔が現れた。
リコは驚きのあまり、持っていた布切れを落としそうになりながら、大きく目を見開いた。
「な、なな、なんですか、ジルさん!?顔が近いです!」




