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 動物的な本能として、その跳ねる髪を思わず手で掴んでしまいたい、という奇妙な誘惑に一瞬だけ囚われそうになりながら、ジルはそれを理心で抑え込み、本日何度目になるか分からないため息を飲み込んだ。


「ほら、約束はしましたから、時間は守ります。だから今は大人しく帰ってください。これ以上ここに長居されると、私の首が物理的に飛びます」


「はーい! じゃあ夕方に、いつも通り待ってますね! 遅刻したら、次は執務室の窓から突撃しますから!」


 最後まで不穏な脅し文句を残していく機嫌良さそうなリコの後ろ姿を見送り、ジルは彼女をひとまず正門の守衛に引き渡してしっしっと盛大に追い出した。

 そこからジルは自分が本来いるべき場所へと向かって、元来た道を重い足取りで引き返す。

 王宮の正門から彼が所属する兵団の事務室までは、広大な敷地を横切る必要があり、かなりの距離がある。

 歩きながらジルは頭の中でこれからの予定を組み立て、暗澹たる気持ちになっていた。

 これから事務室に戻って、まずは「壁穴からの不法侵入者(通称:女絵師)に関する対応報告書」を作成しなければならない。その後、リコのせいで完全に中断してしまった本来の仕事を、なんとしてでも今日中に終わらせる必要があるのだ。


 ジルが所属する兵団は、基本的に剣を振ることと筋肉を鍛えることしか頭にないような、いわゆる「脳筋率」が異常に高い組織である。

 そんな荒くれ者ばかりの環境において、幼少期から読み書きや計算に真面目に取り組み、座学が全く不得手ではないジルはある種の人材不足から非常に重宝されていた。

 重宝されるといえば聞こえはいいが、要するに面倒な書類仕事、予算の計算、他部署との調整といった、他の兵士たちが一目散に逃げ出すような事務方の仕事を、もっぱら一手に押し付けられているのが現状だった。

 ジルの実家は、王都の片隅で細々と暮らす、平々凡々とした庶民である。

 彼はその次男坊として生まれた。長男が家業を継ぐことが決まっていたため、次男であるジルには家を継ぐ権利もなければ、頼れる資産もない。

 だからこそジルは、自分の身を立てるために人一倍真面目に勉学に励み、同時に兵士としての最低限の剣技も必死に磨いてきた。そうしてようやく勝ち取ったのが、この「安定した公務員」という兵団のポストなのである。

 職を失うわけにはいかないし、評価を落とすわけにもいかない。根が真面目で、堅実な人生を望む彼は、リコの乱入によって自分の仕事に遅れが出ていることにリアルタイムで胃を痛めながら事務室の扉を開けた。


「おう、お疲れさん、ジル。今日もまたお前のところの可愛いリコちゃんが遠征に来てたんだって? 警備班の連中が笑ってたぞ」


 事務室に入り、自分の席に着こうとした瞬間、ひょこりと向かいの乱雑な机から赤髪の頭が覗いた。

 ニカッと白い歯を見せてジルを見上げたのは、同僚のシャルである。

 シャルはジルと同期の兵士で、無駄に整った精悍な顔立ちをしており、街の女性たちからの人気も中々に高い男なのだそうだが——残念ながら、今の彼はその形の良い、いかにも剣士らしい引き締まった右手の小指を、あろうことか自身の右の鼻の奥深くへと突き立てている最中だった。


(……もしリコがこの光景を見たら、絵描きの美的センスとして激しい興奮を覚えるのだろうか、それとも百年の恋も一瞬で冷めるような幻滅を味わうのだろうか)


 ジルはどうでもいいことを一瞬考え、すぐに頭を振って思考をかき消した。


「ええ、笑い事じゃありませんよ。3日前にも厨房の裏口から侵入しようとしていたのを捕まえて、料理長に油を注がれる前に追い返したばかりです。まったく、我が城の防衛網はどうなっているんだか……」


「まあまあ、そう硬いこと言うなよ。案外さぁ、あのリコちゃん、お前に会いたくてわざわざリスク冒して城に忍び込んでるんじゃねえの? ナンツッテナ!」


 未だに鼻の穴に小指を深く突き立てたまま、豪快に「ガハハ!」と下品に笑うこの同僚に対して、ジルはただ、魂が抜けたようなげっそりとした表情を返すことしかできなかった。


「……あり得ませんね」


 ジルは断言した。あのリコが、自分に対してそのような甘酸っぱい、あるいは殊勝な恋慕の情を抱いているとは到底思えない。

 むしろ、もし万が一にでも彼女が自分に恋を引っかけ、こちらの気を引くためにやっているのだとすればまだ救いがあった。なぜなら、恋愛感情が絡んでいるのであれば、こちらが「そういうのは困る」と真摯に突き放すか、あるいは何らかの交換条件を提示することで、連日に及ぶ彼女の城内侵入という凶行を止める手立てが見つかる気がするからだ。


 だが、現実は非情である。

 彼女にはこちらの仕事を邪魔している、という悪意もなければ、逆に「好かれたい」という殊勝な動機もない。リコにとってジルは、単に「自分の素晴らしい芸術活動を邪魔してくる、ちょっと融通の利かない男」として邪険にされている節すらある。

 あるいは、それ以上にタチが悪いことに、彼女の中でジルは「タダでいくらでも使い倒せる、都合のいいポーズ人形モデル」という金ヅル扱いにされているのがオチだ。


(そうだ。今日という今日は、絶対にただで描かせるものか。今まで無駄にされた私の労働時間を考えれば、相応の対価……そう、せめてあのおいしい街のパン屋の焼き菓子セットくらいは要求してやる)


 ジルが心の中で、その固い、ささやかな決意を握りしめたときだった。

 ようやく鼻の穴から満足げに小指を引き抜いたシャルが、ズボンの裾でさりげなく指を拭きながら、思い出したようにポン、と手を打った。


「あ、そうだ。忘れるところだったわ。イデール王国の王子の警備に関する申請書類だけどさ、ユーゲン兵長が『そろそろ限界だから早く提出してくれ』って、さっき言ってたぞ」


「……え?」


 ジルの動きがピタリと止まった。


「あ、ああ……! 忘れていたわけではないですが……、そうですか、もうそんな時間ですか……」


 ジルはガクリと両肩を落とす。

 イデール王国といえば、我が国と深い同盟関係にある隣国であり、何より我が国の第二王女殿下が嫁がれた先でもある。

 その高貴な血を引く息子——つまり王女殿下にとっては我が子、この国にとっては大切なお客様である王子が、近日中に王女殿下と一緒にしばらく実家であるこの王城に遊びにくることが決まっているのだ。


 国賓の滞在ではないとはいえ、王族の移動である。その件に関しての、滞在中の警備の人員配置図の作成、夜間の見回りシフトの調整、そしてそれに伴う超過勤務手当や食費の予算申請書を、全てデータと書類にまとめて今日中に兵長へ提出しなければならない。

 本来であれば、ジルの緻密なスケジュール管理のもと、とっくに出来上がって兵長の机に届いているはずの書類であった。

 それが未だに、白紙の領域を多く残したままジルの机の上に放置されている理由は——言うまでもなく、明白である。


 つい先ほどまで、自分の目の前でピョコンピョコンと飛び跳ねていた、あの忌々しくも憎めないミルクティー色の髪が脳裏をよぎる。

 ジルは押し寄せる焦燥感と、リコに対する少しの苛立ち(と、断りきれなかった自分への情けなさ)を覚えながら、大急ぎで羽ペンをインク瓶に浸した。


「おいおい、大丈夫か? 手伝ってやりたいのは山々だが、俺はこれから実技訓練の指導なんだわ。じゃあな、頑張れよ!」


 シャルは気楽な調子でそう言い残すと、木剣を肩に担いでさっさと事務室を出て行ってしまう。いつも通り頼りになる同僚はここにはいない。


「……昼休みは、完全に返上ですね」


 ポツリと誰もいない空間に向かって嘆き、ジルは猛烈な勢いでペンを走らせ始めた。

 リコには「いつもの時間で」と言ってある。それはジルの勤務時間が一区切りつき、見回りの交代時間になる夕方のことだ。

 その時間までにこの膨大なイデール王国関連の書類を完璧に仕上げ、兵長の決裁をもらい、さらに自分の机を片付けなければあの野うさぎとの約束の場所に遅刻してしまう。


 もし自分が少しでも遅刻をすれば、不満げに頬を膨らませて「遅いです、ジルさん!芸術家を待たせるなんて、万死に値します!」とプリプリと怒り散らすリコの姿が、容易に想像できてしまった。

 怒らせるとさらに面倒なことになる。それだけは避けなければならない。


「……急がないと」

 

 根が真面目な彼は静かな事務室にガリガリとペンが走る音を激しく響かせ始めた。


 


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