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「早く!」
クリスが倒れた男たちにもう一度鋭い蹴りを入れながら、リコを急かした。大急ぎでリコは牢屋から飛び出る。
背後で、起き上がった男たちの怒号が響く。リコを羽交締めにしていた男がヨロリと立ち上がり、クリスの背中に突進した。激しい肉体の衝突音。突き飛ばされるようにして、クリスが牢屋から飛び出て来る。
クリスに叫ばれて、リコは出口へ向かって走った。
暗い石造りの通路をがむしゃらに進む。クリスはもう一度最後に男に蹴りをくらわし、リコの後に続いて走る。
背後から追手の怒号と激しい足音が迫ってくるのが聞こえる。ハアハアと荒い息をしたまま地下牢を出る階段を駆け上り、縛られた手で扉を開けてリコは屋敷の廊下へと出た。すぐにドタバタとクリスが追いつく。
クリスが出たのを確認して、リコはガチャリと扉を閉め、そのままつまみを回して鍵をかけた。
カチリ、と重い錠前が降りる音が響く。これで数分は時間を稼げるはずだった。
「窓から出よう!」
クリスに言われてリコは近くの大きなガラス窓を割る。廊下に置かれていた重い真鍮の置物を投げつけると、ガシャーンと派手な音がしてガラスが飛び散った。
幸い地下牢の近くには誰もおらず、リコは窓を跨いで外へ出た。その時に大きな破片をひとつ拾う。後で縛られた腕の拘束を解かないといけないからだ。
ガラスの角が指に食い込み、小さな血の線が走ったが、今のリコにはその痛みすら感じる余裕はなかった。
「あそこの垣根を越えて!」
クリスは元々この屋敷で暮らしていたのだ。詳しいのだろう。
どのルートを通れば見張りの目を盗めるか、彼は把握していた。リコはクリスの指示に従って、低い垣根を超えて塀に沿って走る。
冷たい夜風が肌を容赦なく打ち据えた。ドクドクと心臓が高鳴っている。耳の奥で、自分の血流の音がうるさいほどに響いていた。
「そこの木戸から外へ!」
クリスの言った通り、すぐに塀に木戸がついていた。裏口だろうか。リコは扉を開けて外へ転がり出る。
ようやく、あの呪われたペンバーの屋敷から抜け出すことができたのだ。
外はすっかり闇夜に溶けていた。
年の瀬の凍てつくような寒気の中、王都の裏路地はひっそりと静まり返っている。リコは手の拘束を解こうと小さな路地裏へ入り込む。すぐに追手が来るかも知れない。一刻も早く、お互いの自由を取り戻さなければならなかった。
「クリス、すぐに縄を解きましょう!」
リコは焦って振り向いた。これでやっと助かる、そう言おうとして、しかし、彼女の目に飛び込んできたのは、信じられない光景だった。
まるで世界の時が歪んだかのように、リコの視界がゆっくりと動く。
月明かりに照らされた路地裏で、脂汗の滲んだクリスが、力尽きたように膝から崩れ落ちた。
「クリス……!」
リコは慌てて縄を切り、クリスに駆け寄る。
手に入れたガラスの破片で自分の縄を強引に引きちぎり、崩れ落ちる彼の身体を必死に支えようとした。クリスの顔から血の気が引いていて、青白い。抱き起こそうと彼の背中に手を回して、リコはヌルリと湿った感触に気がついた。
生温かい、大量の液体の感触。
……リコは青ざめた。その背中は真っ赤に鮮血で染まりポタリポタリと血が滴っている。
逃げるので必死で、後ろを走ってついて来る彼の背中の傷に気が付かなかったのだ。
あの地下牢から脱出する瞬間、リコを羽交締めにしていた男が背後から突進してきた、あの瞬間に、彼はリコの盾となって刃を背中に受け止めさせられていたのだ。
「血が、……」
リコは震える手でクリスの縄を切る。
血の海の中で、リコの指先はガタガタと震え、ガラスの破片が何度も滑り落ちそうになった。
「牢から出る時に、刺されたんだ……」
クリスが口の中でつぶやくように答えた。
その声は信じられないほど弱々しく、今にも消え入ってしまいそうだ。
「お、お医者様に……!」
回らない頭でリコはクリスの腕を取り、肩にまわして彼を支えた。
自分の身体よりも遥かに大きな彼の肉体が、恐ろしいほど冷たくなっていくのを感じる。ズリズリと彼を引きずるようにして歩かせた。
一歩進むたびに、クリスの足元から生気が失われていく。手近に見えた屋敷の門をドンドンと叩くと、使用人の男が訝しげに顔を出した。路地には点々と血の跡が残っている。
「助けてください!どうか!お医者様を……!」
リコが使用人の男に縋るようにして頼むと、男は二人の様子を見て血相を変えた。
血塗れになった男女の姿は、あまりにも異常だった。
「ど、どうしたんだい!ちょっと待ってな!すぐに医者へ行った方がいい……!奥様!奥様あー!」
使用人の男が屋敷の奥へ駆け込んで行く。
幸いにも、その屋敷の主人は慈悲深い人物だった。すぐに何人か集められ、クリスは医院へ担ぎ込まれた。
白いシーツが、瞬く間にクリスの背中から溢れる鮮血で赤く染まっていく。ベッドに寝かされたクリスの手を握り、リコは泣きじゃくる。
「クリスっ……!大丈夫よ、すぐお医者様が来るわ!」
今やクリスの顔は死人のように青白く、その目は虚だった。殴られた顔は赤黒く腫れていて、きっと身体中ひどいアザだらけになっているだろう。
朝食の時に見せてくれた、あの吸い込まれそうなほどに美しい青年の面影はもはやどこにも残されていない。
「リコ、……」
力の入らない腕で、クリスの指がピクリとリコの手を握り返した。
驚くほど冷たい指先だ。
「リコ……なんで泣いているの、」
クリスがその指をリコの頬に伸ばす。クリスの美しい顔は今や目の周りが腫れ上がり、彼の片目は細い糸のようになってしまっている。
血濡れたクリスの指が頬をなぞり、四本の赤い鮮血がリコの顔に走った。
「っ、……クリス、クリス!」
リコが涙を流しながらクリスに縋り付く。
クリスは力なくか細い、震える声でそっと囁いた。
「夜ごはんのスープ、準備してあるから、あたためてちゃんと食べて……」
こんな時に何を暢気なことを言っているのか、リコは眉を下げて滲んだ視界でクリスを見やる。
「ジルの言うことも良く聞くんだよ」
なんでこんなことを言うのか、理解ができない。リコの喉からはつっかえたように言葉が出てこない。代わりに小さくひくついた嗚咽が何度も漏れた。
「…………僕の希望……僕だけの、かわいい、かわいい……リコ」
クリスの瞳が優しく滲む。
薄く口角をあげて、クリスは笑っていた。その笑顔は、今朝のダイニングで見せてくれた、あの優しい笑顔と全く同じだった。
「どいてください」
医師が大股で部屋に入ってきて、泣きじゃくるリコは退かされた。
医師はクリスの惨状に顔を顰めた後、スタッフに手早く指示を出している。止まらない出血、低下していく心音。緊迫した叫び声が飛び交う。
「あなたは下がってて!!」
一刻を争うのだろう。リコは医師に鋭く言われて部屋から追い出された。
冷たい廊下のベンチに一人取り残され、リコはただひたすらに祈る。ふと視線をあげると、廊下の窓に自分の青ざめた顔が映っていた。その頬に、赤く四本の血塗られた線が見えた。
クリスを失ってしまうかもしれないという恐怖にリコの体がガクガクと震える。
リコはまだ、何も出来ていない。クリスと一緒に、何もできていないのだ。
「死なないで、クリス……っ」
目を閉じると、鮮明に蘇るのは、彼と過ごした懐かしい日々の記憶だった。
極貧の幼少期、絵を地面に描いてはクリスを呼びに行ったことを思い出す。
地面に描いた拙い絵を、彼は誰よりも大切そうに見つめてくれた。彼はいつでも優しさを目尻に滲ませて、リコに笑いかけてくれた。
その思い出のすべてが、リコの瞳に涙と共にせりあがる。
一方、医師が手早く処置を進めるなか、クリスもぼんやりと過去を思い出していた。
極貧の幼少期、あの日、街の片隅の小さな店の甘い菓子を、どうしても食べたいとリコがねだったのだ。クリスは小さなリコの手を引いて、二人で何日もかけて鉄屑を拾い集めた。それを換金して、ようやく手に入れた菓子ひとつを、こっそり二人で半分に割って食べた。
身分もお金もなく、ただ明日の命すら分からなかったあの頃、それでも二人で笑い合ったささやかな日々。
『クリス!』
リコの声が木霊する。
「リコ」
クリスは夢に微睡み、わずかに微笑んだ。夕食のあたたかな香りに包まれた小さな家の扉を開けると、小さな彼女がミルクティー色の髪を揺らしてクリスを出迎えてくれる。服にはあちこちに顔料がついていて、彼女は満足そうに笑うのだ。
『おかえりなさい、クリス』
医師が額に汗を滲ませ処置を進めるなか、クリスの視界がぼやけた。医師は何度もクリスが譫言のように、リコの名を呼ぶのを聞いた。およそ死の淵にある男とは思えないほど、彼は穏やかにその名を呼んでいる。
その夜、クリスは静かに息を引き取った。
澄んだ夜空に星の輝く、美しい夜だった。




