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「……なに?」
ドサリとクリスの体が解放され、彼は膝から崩れ落ちる。
あまりにも激しい殴打の連続に、彼の屈強な身体も限界を迎えていたが、その瞳に宿る冷徹な光だけは微塵も揺らいでいなかった。クリスは薄く笑いながら続けた。
「言葉のままだ。既に所有権はヘクセル陛下にあると言ったんだ」
地下牢の湿った空気が、その一言で完全に凍りついた。
ペンバーがどれほど暴力を振るおうと、どれほどリコを脅そうと、すでに国家の最高権力者に渡ってしまった土地の権利書を、一介の貴族が覆すことなど不可能なのだ。
「なるほど、先を越されたか」
ペンバーは考えるように顎髭をひと撫でする。
その声には、驚きも、焦りも、激昂もなかった。地下牢は水を打ったように静かになった。
松明の炎がパチパチと爆ぜる音だけが、不気味に響き渡る。
「わかったろ、お前らにくれてやるものなんか何も無いんだ」
クリスが血を吐き捨てるように言う。
唇を割り、顔を赤黒く腫らしながらも、彼は傲然と言い放った。
「ふん、」
クリスのその態度に面白くなさそうにペンバーは鼻を鳴らす。
リコが痛みに耐えながらようやくペンバーを見上げると、突然彼はまるで鬼の首をとったような顔で醜悪な笑みを浮かべた。
その顔は、人間の感情から最も遠い場所にある、底知れない狂気と愉悦に満ちていた。あまりのその恐ろしい人相にリコは恐怖で震えあがる。
……あれは人ではない。人の形をしたナニカだ。もはや人の笑みには見えなかった。
——ペンバーの伏魔殿には魑魅魍魎が跳梁跋扈する——
リコの脳裏にいつかの噂話が蘇る。まさに彼は悪鬼だ。
「なるほど、その陛下が死ねば、どうなるかのう」
「なにを……」
クリスが気圧され、眉を顰めてペンバーを見上げる。
王を呪うような不穏極まりない言葉。その言葉が持つ本当の恐怖を、二人が理解するよりも早く、重厚な石の扉が乱暴に押し開けられた。
「ご当主様!」
一人の執事が地下牢に駆け込んでくる。
彼は息を切らし、震える声で口早に言った。その顔は土気色に染まり、額からは大粒の汗が流れ落ちていた。
「ヘクセル陛下が、崩御なさりました……!!」
リコとクリスが目を見開いたのは同時だった。そんな、信じられない。彼はまだ二十一歳と若かった。リコと同じ歳だ。
王都の未来を担うはずだった若き王の、あまりにも突然すぎる、そしてタイミングの良すぎる死。
「さて、残念だが私は行かねば。後継のない王が冠を置いたとなると、誰かがかぶらねばならん」
ペンバーが言った。その表情は既にいつもの落ち着いたものに戻っている。だが、実に満足そうだ。
すべては彼の描いたシナリオ通りだったのだ。新王に土地を譲ろうが、その王自体を盤上から排除してしまえば、すべての権利は再び宙に浮き、力ある者が奪い取ることができる。
……何かをやった。
リコは確信した。この男が、陛下を死に追いやったに違いない。
背筋に今まで感じたことのないような、おぞましい戦慄が走る。
「こやつらはどうしましょう?」
クリスの前に立つ男が、ペンバーに聞いた。
用済みのゴミをどう処分するかを尋ねるような、あまりにも軽い口調だった。
「好きにしてかまわん。死体は片付けろ」
リコは目を見開いた。
それは明確な死刑宣告だった。カツリ、カツリ、と靴音を響かせてペンバーが地下牢を出て行く。その背中は、これから始まる王都の覇権争いに向けて、歓喜に震えているようだった。
「へへ、」
グルリ、とリーダー格の男がリコの方へ振り向く。一体何をされるのだろう。身の危険を感じ、リコは恐怖に後ずさる。
ペンバーという重石が外れたことで、残された男たちの目には、剥き出しの残虐性と下劣な欲望がギラギラと輝き始めていた。
「やめろ!」
立ちあがろうとするクリスを残りの男二人が力ずくで取り押さえにかかった。クリスがその上背のある体を唸らせて、必死で抵抗しようとしている。
ボロボロの身体から信じられないような力を振り絞り、クリスは咆哮する。しかし、後ろ手で縛られた状態では、二人の巨漢を退けることは叶わない。
恐怖に慄くリコの首元に、ヒヤリとしたものが突きつけられた。
冷たい刃の感触。男が座り込むリコの背後に周りこみ、クリスに見せつけるように短刀をリコの首元に突きつけている。気づいたクリスが悔しそうに瞳を歪ませ、動きを止めた。
「大人しくしてろ。じゃねえと、うっかり手が滑っちまうかもしれねえな」
男が楽しそうに薄く笑う。
下卑た笑い声がリコの耳元で響き、男の荒い息遣いが肌に触れる。喉元に突きつけられていた刃が脅すようにスルスルと動く。
「や、やめて……」
リコの目から涙が溢れ出す。
鳥肌が立つような嫌悪感と凍りつくような恐怖。男はリコを羽交締めにしたまま、クリスに見せつけるようにニヤリと笑った。
「女の脅えた顔はたまんないねえ。俺はじっくり可愛がってやるのが好きなんだ。一思いに殺しちゃつまんねぇだろ?なあ、爪から剥ごうか。その後は一本一本、指を折るんだ」
「いや……っ」
恐怖に慄いて、リコはカタカタと震えが止まらなかった。
薄暗く冷たい地下牢の中で、自分の尊厳が容赦なく踏みにじられていく。
……やめて、たすけて、誰か、たすけて。
「ははは!」
高笑いをして男の手が伸びようとした、その瞬間だった。
「貴様ーーーっ!!!!!」
クリスがその瞳孔を見開き、狂ったように激昂した。
おおよそ人とは思えないほどの声を出して彼は力任せに体を捻り、その長い足で自分を取り押さえる男たちを蹴り飛ばす。骨の砕けるような音が響き、男たちが呻き声をあげて後退する。あまりに力みすぎたのかバランスが取れずよろめいたのもそのままに、目の座ったクリスがリコを捕らえる男に向かって勢い良く体当たりを喰らわせた。
一頭の猛獣が突進してきたかのような質量に男は驚いて油断していたのか、そのまま体を吹っ飛ばされる。
リコを拘束していた力が外れ、リコは床に転がった。
「リコ、立って!!」
クリスに鋭く叱咤され、リコは震える足で立ち上がった。油断していたのだろう男たちは地下牢の扉を開けたままだ。
これが、最初で最後のチャンスだった。




