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リコの瞳がゆっくりと見開かれた。口いっぱいに頬張っていたパンをゴクリと飲み込む。味がしない。
喉を通り過ぎていく小麦の感触だけが妙にリアルで、頭の中は完全に真っ白になっていた。今、目の前の美男子は何と言ったのだろう。聞き間違いでなければ、それは明確な求愛の言葉だった。
「君のおかげで奴隷の身分からも解放された。幸いジルに紹介してもらって手に職もある。これから少しまとまったお金も手に入りそうなんだ……だから、君と新しい生活を始めたい。幼なじみじゃなくて、恋人として」
「ク、リス……」
リコは言葉が出てこなかった。あまりにもビックリしすぎて、代わりにさっき食べたパンが出てきそうだ。
かつてペンバーの屋敷で無力な奴隷として怯えていた彼はもういない。自らの足で立ち、将来を見据え、そして自分を隣に望んでいる一人の男が今目の前にいる。
「返事はすぐじゃなくていいんだ。ゆっくり考えてみて?……僕のことを、そういう風に見てほしい」
「私、……」
「僕は、君をそういう風に見てる。正直、君に触れたい。とても、とても」
真っ直ぐな視線に貫かれた。真剣な眼差しにドキリと心臓が鳴る。リコの頬に朱が差した。
「触れたい」という直接的な言葉の響きが、リコの脳内で小さく爆ぜる。それは、これまで築いてきた「安全な幼馴染」の境界線を軽く踏み越えるものだった。リコのその様子を見て、クリスは苦笑いをしながらガタリと席を立つ。
彼はリコが限界を迎えていることを察し、これ以上の追撃はあえて控えるという余裕を見せた。
「驚かせちゃったかな。ごめんね。……でも、引くつもりは無いんだ。よく考えてみて」
彼はいつもの柔らかな微笑みに戻ると、リコの頭をそっと撫でるようにして言った。
「洗い物、よろしくね」
そう言い残して、クリスは仕事に出かけた。
玄関の扉が静かに閉まる音が聞こえても、しばらくリコは動けずに、ダイニングテーブルで固まったままだった。
(クリスが?私のことを?……好き?)
反芻し、思い返しただけでまた頬が熱くなる。
クリスはとっても優しいし、なんでもできる。おまけに超のつく美男子だ。クリスほど美しい男性はイケメン探しに人生を捧げたリコも未だ見たことがない。
あの輝くような金髪、憂いを帯びた青い瞳、そして自分に向かって真っ直ぐに放たれた「君に触れたい」という熱い言葉。
「で、でへへ……」
思わず奇妙な締まりのない笑い声がリコの口から漏れた。
一日何をして過ごしてもそのことで頭がいっぱいになってしまう。掃除をしても、買い出しに行っても、他のイケメンの絵を描いていても、だ。
キャンバスに向かって筆を握っていても、気づけば絵の中の顔の横にクリスの微笑みがチラついてしまう。
まさかそれがクリスの狙いだとは気付かずに、リコはまんまと彼の策にはまり、一日中思い出してはどうしようと頬を染めたり、クリスとの生活を思い描いてみてニヤけてみたりした。
「わ、私のこと……すきって」
自分で呟いて、恥ずかしすぎて悶絶する。
リコはベッドの上に倒れ込み、枕に顔を押し付けてバタバタと足を暴れさせた。少女漫画の主人公になったかのような圧倒的な高揚感。
だが、そのたびに脳内に蘇るのはジルだ。
さらにリコは頬を染める。
「……どうしよう」
(だって、私が好きなのは……)
リコがまさか二人の男に言い寄られる愉悦感に浸り、うっとりと両頬に手をあてた時だった。
平和な混濁を破るように、コンコン、とリコの家の扉がノックされた。
「は、はい。どちら様ですか?」
リコが咳払いをしながらガチャリと扉を開くと、いつかの若い男の執事がニコニコと愛想の良い笑みを浮かべて立っていた。ペンバーの屋敷の者だ。
彼は仕立ての良い上着を纏い、洗練されたお辞儀をして見せたが、その手には王都で人気店の限定スイーツを握って差し出している。
それは、今朝から並ばなければ絶対に手に入らないと言われている、最高級商会の特製焼き菓子ボックスだった。くそう、ずるいぞ。これじゃあ断れないじゃないか、とリコは早々に白旗をあげてしまう予感がする。
「お久しぶりですリコ先生」
「そんな、先生だなんて……」
執事のわかりやすい太鼓持ちにも機嫌の良いリコはまんまとのせられてしまう。
絵師としてのプライドをくすぐられ、さらに目の前の高級スイーツの魅力が、彼女の警戒心を完全に麻痺させていた。
「実は、ご当主様がリコ先生をお呼びでして。今から来ていただけますか?」
「え、何の用事ですか?」
リコはそこで、ようやく正気に戻って首を傾げた。
なぜ「ご当主様」、つまりあの不気味で傲慢なペンバーのトップが、自分のような一介の街絵師を直接呼び出すのだろうか。
「さあ、それは私どももわかりません。直接お話しになるようですので、いらっしゃってもらえませんでしょうか」
リコは一瞬悩んだ。受け取ってしまったスイーツを恨めし気に眺める。
ジルとクリスに大反対されるだろう。
ジルからは「仕事が終わったらすぐに引き上げろ、ペンバーの屋敷では無理をするな」と厳しく釘を刺されていたばかりだ。あそこは伏魔殿であり、自分のような素人が関わっていい場所ではない。しかし、若い執事はリコのそんな躊躇を完全に見越していたかのように、極めつけのカードを笑顔で提示した。
「お屋敷にはお抱えパティシエの、アイスクリームパフェがありますよ。ラズベリーとチョコソースのハーモニーがそれはそれは素晴らしい逸品でして、」
「あ、すぐ行きますね。ちょっと待っててください」
リコは二秒で陥落した。
彼女は慌てて上着を羽織り、画材カバンを掴むと、自ら進んでペンバーの伏魔殿へと足を踏み出すのだった。




