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早速リコは次の日、ペンバーの屋敷に来ていた。
王都の冬の朝は、灰色のがんこな雲が低く垂れ込め、凍てつくような北風が吹き抜けていく。重厚な石造りの門の前に立ったリコは、いつものように堂々と足を踏み入れるのを踏みとどまり、少し離れた街路樹の陰へと身を潜めた。昨日、ジルから不本意ながらも託された「潜入調査」という極秘任務を遂行するためだ。
すぐには屋敷へ入らず、少し隠れて遠くからじっと門の出入りを観察してみた。
大きな画材カバンを抱えたまま、リコは目を凝らす。だが、歴史ある貴族の屋敷というものは、常に想像以上の人間が行き交う巨大なシステムだった。
下働きの者の出入りはもちろん、奥方の呼びつけた商人や、ペンバー家お抱えの商会まで様々な人が出入をしている。
高級な馬車から降り立つ絹をまとった老紳士、大きな木箱を担いだ屈強な職人たち、足早に書類を運ぶ文官風の男。情報通でないリコは誰が誰やらさっぱり分からず、軽く頭を抱えた。
いくら目を凝らして観察したところで、王都の闇の勢力図や、ペンバー当主が裏で繋がっている不穏な人物の顔など、一介の絵師に過ぎないリコに判別できるはずもなかったのだ。
なるほど、わからん。
リコは小さくため息をつき、これ以上冷たい風に吹かれながら門の前に立っていても時間の無駄であると判断した。このまま見ていても特に収穫はないだろうと早々に諦めて引き上げる。
外からの観察が駄目なら、内側から切り込むまでだ。リコは屋敷の中へ入って探りを入れてみることにした。
「ええっと、お手洗いはこっちだったかしら〜。」
わざとらしく迷いながら広い屋敷の中を歩く。
高い天井にはめ込まれた美しいステンドグラスから、冬の淡い光が迷宮のような廊下に降り注いでいる。リコはすでに何度か出入りしているので、屋敷の下働きの者にも疑われることはなかった。
すれ違うメイドや従僕たちは、見慣れた若い女絵師に対して「失礼いたします」と一礼するだけで、誰も彼女の行動を怪しむ様子はない。だが、それゆえに逆に手がかりも見つからなかった。
何人かの人とすれ違うが、誰が誰やらさっぱりわからない。
王都の政治を揺るがす黒幕たちの顔を知らないリコにとっては、すれ違う不機嫌そうな貴族も、ただの気難しいおじさんにしか見えないのだ。そうこうしているうちに、廊下に設置された豪華な柱時計の針が、約束の時間を指し示そうとしていた。
アーチとの約束の時間が来てしまい、リコはとうとう諦めてアーチの部屋へ向かった。
「失礼します」
「どうぞ」
いつも通りアーチは椅子に腰かけて待っていた。愛想笑いのひとつもしない。だが、かと言って愛想が悪いというわけでもなかった。
彼はリコが室内に入ると、静かに読んだばかりの書類を机に伏せ、姿勢を正した。その独特の落ち着きと、父親譲りのどこか底知れない威圧感が、薄暗い部屋の空気を満たしている。
リコはカバンからパレットを取り出し、イーゼルを組み立てた。
「早速続きを描かせていただきますね!」
「はい」
リコは画材を広げると準備をして絵を描き始める。
キャンバスに向かい、アーチの顔立ちをじっと観察しながら筆を動かす。すでに絵は終盤に差し掛かっていた。
リコはキャンバスの陰から、ごく自然な雑談を装って、それとなく探りを入れてみることにした。ジルから頼まれた情報を、少しでも多く引き出すためだ。
「そういえば、アーチ様は誰と縁組なさるのです?」
「まだ正式には決まっていないんだがね、リーレイ家のお嬢様だよ。婿入りをするから、相手から色良い返事をもらわないといけないんだ」
「あら、じゃあ腕がなりますね!」
リコはリーレイ家のお嬢様が誰なのかは全くわからない。
王都の貴族社会における勢力図など、リコの知識には存在しない。リーレイ家という名がどれほどの権力を持つのかも知る由はなかったが、一応ジルに報告しようと心の中にメモをする。
アーチは自らの縁談について、どこか冷めた、政略結婚であることを割り切っているかのような、静かな瞳でリコを見つめていた。
「頼んだよ」
リコはニッコリと笑って続ける。
彼の平凡な見た目を、そのリーレイ家のお嬢様がひと目で「この男に抱きしめられたい」と惑わされるほどの傑作に仕上げてみせる。それは絵師としてのプライドだった。リコは筆を動かしながら、さらに質問を重ねた。
「リーレイ様にはお会いしたことがあるんですか?」
「いや、まだ一度も会ったことがない」
「あら、そうなんですね。このお屋敷にはたくさんの方が出入りしていますから、お嬢様もいらっしゃったことがあるのかと思いました」
「残念ながらね……この屋敷にそんなに沢山の人が出入りしているかい?大体決まった人ばかりだと思うけど」
アーチの焦茶の瞳が、ふと探るようにリコへと向けられた。




