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「困るよあんたたち!どっか行ってくれ!」
ペンバーの屋敷から帰る途中、街の繁華街でパン屋に寄っているとその怒鳴り声は聞こえた。
王都の冬の空気はどこまでも冷たく、夕刻の繁華街は家路を急ぐ人々や、店先に灯り始めた魔導ランプの光で賑わいを見せていた。焼きたての香ばしい小麦の香りが漂う老舗のパン屋のバゲットを買い付けているその時に、その甲高い声は響いた。
リコが振り返ると、小さなカフェの前に数人の乞食たちがたむろしている。
身なりの薄汚れた、外套ともボロ布ともつかないものを纏った男たちが、お洒落な店構えのカフェのテラス席や入り口を塞ぐようにして、地面に直接腰を下ろしていた。通りかかる客たちは眉をひそめ、あからさまにその店を避けていく。
「どこに行こうが、俺らの勝手だろ?」
乞食の男たちは憮然と言い返し、カフェの店主は目を釣り上げている。
両者の間には、すでに何度も繰り返されてきたであろう泥沼の押し問答による、ひどく険悪な空気が沈殿していた。
店主は顔を真っ赤にし、今にも掴みかからんばかりの剣幕で拳を震わせているが、男たちの目は完全に濁っており、どこか組織的な意志を感じさせる居直り方を崩そうとはしない。
「あんたらにそこに居座られちゃ、こっちだって商売になんないんだ!帰ってくれ!」
「ああ、あの様子じゃあ、あそこも長くないなあ」
パン屋の親父が首を振った。
小麦粉で白くなったエプロンで手を拭いながら、親父は哀れみの混じった複雑な視線をそのカフェへと向けている。
王都の表舞台の華やかさの裏で、このような小規模な店舗が理不尽に潰されていく光景を、親父は何度も見てきたのだろう。
リコは不思議に思って尋ねる。
「一体どうしたんですか?」
「ここしばらく、マフィアの連中がこの辺り一体を地上げしてるんだ。言うことを聞かないとああやって身寄りのない者たちを使って嫌がらせをしてくる。当然しばらくすれば店は潰れちまうんだ」
「なんて悪どいことを……」
リコは胸の奥が不快な怒りで満たされるのを感じた。
純粋に汗水垂らして働いている人間の店を、暴力や嫌がらせという陰湿な手段で追い詰めていく。そのやり口の悍ましさに、思わず握りしめた拳に力が入る。
「最近再開発の都市計画が持ち上がっているだろ?その利権争いさ。姉ちゃんも気をつけな、ああいう輩には近づいちゃいけねぇよ」
パン屋の親父は、リコのような無防備な娘が巻き込まれることを案じて、わざわざ低い声で忠告を付け足してくれた。
新王の即位に伴う王都の利権の再編、その巨大な利権の甘い汁を吸おうと、裏社会の人間やそれに繋がる貴族たちが活発に動き出しているのだ。
リコは店主にお礼を言って、パンを受け取ると家路を急いだ。
ようやく家に帰り、ポストを覗くと小さなメモが投函されている。
それは上質な紙質でありながら、どこか急いで書き殴られたことが分かる、独特の力強い筆跡だった。
「あら、ジルさんだわ」
ジルからの手紙だった。しばらく仕事で家に寄れそうにない、大変残念でならないという未練タラタラのメモである。
そこには、仕事がが入ってしまったことへの言い訳と、本当は今すぐにでもリコの顔を見に来たいのだという、普段の冷静な彼からは想像もつかないほどの未練が行間からこれでもかと溢れ出ていた。あの生真面目な兵士が、職務の合間にわざわざこれだけの伝言を残していくという事実に、リコの胸の奥が少しだけくすぐったくなる。
「ジルさんもなかなか忙しいのね」
リコは小さくつぶやくと、軽く庭の掃除に取り獲りかかった。
箒を手に取り、冬の風が運んできた枯れ葉や石畳の土埃を掃き集めていく。小さい庭と家の前を掃き清め、夕食の支度に取り掛かる。
夕闇が完全に世界を包み込む頃、リコはキッチンに立ち、慣れた手つきでナイフを握った。
リコが作る日はもっぱらスープとパンだ。クリスが作るともう少し贅沢なメニューに仕上がる。
彼が台所に立つ日は、前菜から見事な肉料理まで、以前のリコからは想像もつかないような豪華な食卓になるのだが、リコ一人の時はどうしても手軽な料理に偏りがちだった。
フンフン、と鼻を鳴らし材料を切ってお鍋にぶち込む。塩胡椒とハーブで少し味を整えればあっという間に完成だ。あとはクリスが帰ってきたら温め直して食べればよい。
コトコトと静かに音を立てる鍋からは、素朴ながらも食欲をそそる温かい香りが立ち上っていた。
クリスは高級住宅街のお屋敷で下働きの仕事をしていた。ジルが強引に伝手でもぎ取ってきた仕事らしいが、ペンバーの屋敷で奴隷として働いていたクリスにぴったりの仕事だった。クリスはペンバー家でマナーや仕事をひと通り学んでいるからだ。
立ち居振る舞いから言葉遣い、給仕の所作に至るまで、高級奴隷として完璧に仕込まれていたクリスの技術は、一般の下働きとは一線を画していた。
さらにその整った容姿と、人を惑わせるような儚げな微笑み。職場ではお局のメイドたちに気に入られ、なかなか上手くやっているらしい。
「うん、ばっちり!」
リコはスープの出来に満足して頷くと、アトリエに籠り絵を描き始めた。
ランプの明かりを頼りに、パレットの上で顔料を混ぜ合わせる。アーチ・ペンバーの釣書はもうすぐ出来そうだ。あと二回ほど通えば仕上げられるだろう。自分でも満足の中々の出来である。
平凡なはずのアーチの顔立ちの中に隠された、ペンバーの血筋特有の傲慢さと、それゆえの圧倒的な包容力。キャンバスの上の彼は、世の婦人方が見れば思わず吐息を漏らすような、危険な大人の魅力を完璧に放っていた。自らの筆がもたらした傑作に、リコは悦に入っていた。
リコが絵を描いていると、コンコンコン、とドアがノックされた。この几帳面なノック音はジルに違いない。
しかし、彼女は昼間にポストの中で確認した彼のメモを思い出し、小首を傾げた。
「あら、ジルさんてば今日は来れないって言っていたけど……」
リコは訝しみながら扉を開いた。
仕事の都合がついたのだろうか、それとも何か忘れ物でもしたのだろうか。そんな軽い気持ちで引き開けた扉の向こう、扉を開けた途端、眩しい夕焼けを背負った男が視界に映る。
街の向こうに沈みゆく、燃えるような残照が彼の背後から差し込み、その姿を浮かび上がらせていた。
「やっぱりジルさんだ!」




