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今日も今日とて、ジルはリコの家の扉を叩いた。ここのところほとんど毎日彼はリコの家を訪れている。
夕闇が王都の石畳を急速に藍色に染め上げていく時刻。冷え込みが厳しくなった街路を、ジルは足早に歩み、いつもの見慣れた木製の扉の前に立っていた。
当然だ。あの金髪クソ野郎にリコに手を出され無いように気をつけなければならない。
元奴隷だというあの男——クリスは、リコの同情心と幼馴染としての情愛をこれ以上ないほど巧妙に利用し、同じ屋根の下に居座り続けている。一歩でも引けば、あの狐のような男がどのような手を使ってリコの純潔と心を掠め取っていくか分かったものではなかった。
しかし、ジルが毎日のように足を運ぶ理由は、単なるクリスへの牽制だけではなかった。
あの濃い夜の後のリコの反応はあっさりとしたものであった。
あの宿舎の裏庭、そして己の寝室で交わした、あの激情に任せた強引な抱擁と、酒の勢いに任せたリコからの不器用極まりないキスの逆襲。翌朝、彼女がどんな顔をして自分に怒りをぶつけてくるか、あるいはどれほど恥ずかしがって泣き出すか、ジルは生きた心地がしないまま次の再会を待っていたのだ。
プリプリと怒られるかと思っていたジルだったが、数日後にいつもと何ら変わらぬ様子で接してくるリコに違和感を抱いたり、ホッとしたりしたのを覚えている。
彼女はいつも通りに眼鏡の奥の瞳を輝かせ、屈託のない笑顔でジルの名前を呼んだのだ。その拍子抜けするほどの平穏さに、ジルは己の耳を疑うと同時に、安堵の息を漏らした。だが、同時にある強烈な疑惑が彼の脳裏に浮かび上がる。
どうにもリコはあの日のことを夢と思っている節があるようだった。
そうでなければ、あれほど深く踏み込んだ男と女のの記憶を抱えたまま、これまで通りに平然と手料理を振る舞えるはずがなかった。おそらく、あの度数の高い軍用酒のせいで、彼女の記憶は都合よく「忘れてしまった」もしくは「激しい夢」の枠に放り込まれてしまったのだろう。
真実を突きつけたい反面、それをすれば彼女の頑固な防衛壁が発動してしまうかもしれない。ジルの胸中は複雑だったが、それ以上に彼の心を苛む、もう一つの問題があった。
ジルはいくつか大きな疑問があった。
それは、あの夜の彼女の反応から導き出された、男としての極めてプライベートな、しかし重大な疑惑だった。
どうもリコは今までに自分以外の男とキスをしたことがあるようだ。ジルの男の勘が告げている。
あの夜、泥酔しながらもジルの唇に噛み付くように、そしてどこか受け入れるように応じた彼女の唇の感触。二十一歳ともなれば初めてでなくともおかしくは無いのかも知れないが、いかんせん気になる。そのことを調べなければならない。
もし、自分の知らない過去の男がいるのだとしたら。それが、いま目の前で平然とリコの隣に座っているあの金髪の男だったら——そう考えるだけで、ジルの内臓は嫉妬の炎で焼け焦げそうだった。
そして、それ以上に彼を焦らせていたのは、現在の二人の関係性の曖昧さだった。
もう一つは自分達は恋人同士であるということを確認する必要があった。
ジルは月詠祭ですでに恋人同士になったつもりでいたのだが、なんだかリコの方は怪しい。
あの美しい月光の下、互いの想いを通わせたはずだった。自分は生涯をかけて彼女を愛し、守り抜くと誓った。しかし、王都に戻ってからのリコは、どこかその自覚が希薄なように見える。ここいらでひとつはっきりとさせておく必要がある。
関係の進展を邪魔する障害が多すぎるこの環境で、彼は名実ともに「恋人」としての既成事実を、彼女の口から直接認めさせなければならなかった。
「はい、どうぞ。ジルさんの分です」
リコがいそいそとビーフシチューをジルによそってくれた。くそ、かわいい。
大きめの深皿にたっぷりと盛られた、湯気の立つシチュー。リコはエプロンを揺らしながら、満足そうな笑みを浮かべてジルの前に皿を置いた。その無邪気で温かい家庭的な姿を目にするだけで、ジルの胸の奥にある頑なな塊が、一瞬でとろけるように解けていく。
「ありがとうございます。いただきます」
リコとクリスもテーブルについてビーフシチューを食べている。
室内には暖炉の薪が爆ぜる音と、芳醇な料理の香りが満ちていた。一口スプーンを口に運べば赤ワインで煮込んだ牛肉の芳醇な香りが口に広がった。リコは料理の腕を上げたに違いない。
じっくりと時間をかけて煮込まれたことが分かる、口の中でホロホロと崩れる牛肉の食感。王都の一流レストランにも引けを取らないその見事な味付けに、ジルは素直に感嘆の念を抱いた。
愛しい女性が、自分のためにこれほどの料理を作って待っていてくれたのだという喜びに、彼は胸を張る。
「とてもおいしいです、リコ」
ジルがそう言うと、クリスが笑って答えた。
その細められた琥珀色の瞳に、これみよがしな光が宿るのを、ジルは見逃さなかった。クリスは美しく整った顔に、これまた完璧に整った笑みを浮かべて言葉を繋いだ。
「ありがとう。今日は僕が作ったんだよ」
その瞬間、ジルの口の中で芳醇だったはずのシチューの味が、突如として砂を噛むような何か不浄なものへと変貌した。
この男の作った料理を、自分は美味しいと絶賛してしまったのだ。男としてのプライドが音を立ててきしむ。ジルはスプーンを握る手に力を込めると、氷点下の視線でクリスを睨み据えた。
「クソみたいな味ですね」
「もう!ジルさん!そんなこと言うなら帰てもらいますよ?」
「う、」
そう言われてはジルも弱い。
リコの鋭い叱責の前に、ジルの威風堂々たる男としての威厳は一瞬で霧散した。ここでへそを曲げて追い出されてしまっては、それこそあの金髪男の思う壺である。
ジルは返す言葉もなく、悔しさに唇を噛み締めながら、黙ってシチューを食べていると、これみよがしにクリスがリコに手を伸ばした。
クリスの細く長い指先が、リコの無防備な顔へと近づいていく。
「ふふ、リコ。口元にシチューがついているよ」
そう言って親指でリコの口元を拭う。
あまりにも自然に、そして親密な空気で行われたその指先の愛撫。リコはわかっているのかいないのか「あ、ありがとう」といつもの調子で笑うだけだ。
金髪クソ野郎、許すまじ。
ジルの脳内で、怒りの導火線に再び火がついた。ジルがスプーンを叩きつけるようにテーブルに置くと、バン、と大きな音が響いた。
静かなダイニングに鳴り響いた、硬質な打撃音。驚いてリコはジルを見る。
リコは目を丸くしてジルの顔を覗き込んできた。ジルは瞬時に、狂気的なまでの営業スマイルを作り上げ、にっこりと微笑む。
「リコ、最近オープンしたレストランをご存知ですか?窯焼きピザが絶品だそうです。今度の休みに一緒に行きませんか?」




