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その夜、家に帰りリコが夕食の食卓で釣書の話を話題に出すと、ジルとクリスが一斉に目を剥いて猛反対を始めた。
スープを口に運ぼうとしていた二人の手が、同時にピタリと止まる。
ジルは余程のことがない限り、仕事が終わるとしょっちゅう顔を出し、夕食を共にしている。
もはやこの新居のダイニングテーブルは、ジルの第二の定位置と化していた。リコが持ち帰った最高級の絹や宝飾品、そして「ペンバーの屋敷へ通う」という爆弾発言に対し、普段は犬猿の仲であるはずの二人の男が、完全にシンクロして憤慨した。
「ペンバーの屋敷に出入りする……!?リコ、あなたは馬鹿ですか!ペンバーと言えば年寄衆の重鎮ですよ!あなたの命を狙った張本人かも知れないのです!すぐに断りなさい!」
ジルが額に青筋を立てて立ち上がる。彼の軍人としての危機管理能力が、リコの無防備すぎる行動に警鐘を鳴らしていた。王都の権力闘争のド真ん中に、自ら飛び込もうとする彼女を止めないわけにはいかない。
「ペンバーの屋敷なんて魑魅魍魎が出入りするおぞましい場所だ。ジルの言う通りだ、何が起こるか分からないよ。リコ、絶対にやめておきなさい」
クリスもまた、いつもの儚げな微笑みを完全に消し去り、底冷えするような声でジルの意見に同意した。彼にとっては、かつて自分を玩具のように扱った忌むべき呪われた屋敷だ。そこに、自分の光であるリコが近づくことなど、生理的にも論理的にも絶対に容認できるはずがなかった。
いつもはバチバチと冷たい火花を散らせ合っている二人が、こんな時に限って徒党を組んでいる。
その異様な光景に、リコは少し気圧されながらも、自らの正当性を主張した。
「大丈夫ですよ。ペンバーさんにとって私は命の恩人らしいですし、本当にただの仕事ですから。次男の釣書を描くだけです」
「リコ、君は奥方からも反感を買っているかも知れないんだ。僕は絶対に反対だよ」
クリスの言葉には、実体験に基づく重みがあった。あの屋敷の人間がいかに残酷か。リコが気づかないうちに、嫉妬や怨恨の渦に巻き込まれることを、彼は何よりも恐れていた。
「そうです。年寄衆といえば先王がなくなって今や王城で憚ることなくのさばっています。陛下はいいようにされて苦労しておられる。わざわざ火の元に飛び込んでいく必要はありません!」
ジルは国家の情勢を引き合いに出し、リコの行動の危険性を懇々と説く。新王即位直後の不安定な政情の中、老獪な貴族たちにリコのような無垢な存在が飛び込めば、利用されるのは火を見るより明らかだった。
「でも、もう手付金ももらっちゃいましたし、二人とも私の仕事に口出さないでください!」
「リコ!そんな手付金、すぐに返して来なさい!」
「リコ!このお礼の宝飾品とやらも僕が処分する!」
ギャーギャーと騒ぎ、夕食会議は紛糾した。頭ごなしに反対されたリコは腹を立て、バタンとド派手な音で扉を閉めて寝室にこもってしまう。
自分の誇りである「絵の仕事」を全否定されたような口悔しさと、あまりにも過保護すぎる男たちの剣幕に、リコは怒りを爆発させて扉を乱暴に閉めたのだった。
翌日、リコはクリスとジルの助言を無視してペンバーの屋敷へ向かった。釣書の作成をするのだ。
二人の猛反対など知ったことかと言わんばかりに、リコは画材を抱えて再び豪華な客間へと赴いた。
そこで彼女を待っていたのは、今回の依頼主である当主の次男だった。
初めて会った次男は三十一歳の実に平々凡々とした見た目の男であった。
父親のような威圧的な巨体でもなければ、ジルやクリスのような人目を引く美貌でもない。貴族の衣装を着ていなければ、街の雑踏に一瞬で紛れ込んでしまいそうな、極めて普通の印象を持つ男だった。
「やあ、はじめまして。私はアーチだ。君が噂の絵師ね?」
男は愛想笑いをすることもなく、じっと見るめるようにリコを見て言った。
しかし、その声のトーンは低く落ち着いており、独特の静けさを湛えている。
「はい、リコと申します」
「見ての通り私は平凡な見目の男だ。どうにか魅力的に仕上げてくれるかな?」
「もちろんです」
リコの返事に男は探るような目つきでリコを見る。その焦茶の瞳は実に思慮深気だ。きっと父親似なのだろう。
一見すると冴えない印象の男だが、その瞳の奥にある、すべてを冷静に観察するような鋭さは、まぎれもなくあのペンバー当主の血筋を感じさせた。
「男は見目だけではありません。立ち居振る舞い、所作、性格。全ては総合点なのです」
「ほう。」
熱弁を始めたリコを試すようにアーチは見た。
リコの言葉に、アーチはわずかに興味を惹かれたように片眉を上げる。
「あなたはお父様譲りの迫力がある。厳かな雰囲気も、少し強引そうな口元も、思慮深そうな目元も。所作もペンバー家らしく丁寧でとても堂々としていらっしゃる。これらはご婦人方に大変魅力的に映るでしょう。私が全て絵で引き出して差し上げます」
「はは」
初めて男は笑った。
リコの淀みのない、しかし確信に満ちた言葉に、アーチの冷ややかな仮面がふっと崩れた。
「そのように口説かれたのは初めてのことだ。今が褥での睦言で無いことが大変残念だな。では、始めてくれ」
「はい」
リコは画材を広げると、男の絵を描き始めた。炭筆を握るリコの手に、一気に力がこもる。
男の魅力を、紙の上で最大限に引き出し、淑女たちの心をくすぐる。それこそが、王都で婦人方に絶大な人気を誇る絵師・リコの真骨頂だった。彼の思慮深そうな目元を少し切れ上がらせ、強引そうな口元に知的な陰影を施していく。
ふ、私の釣書ならどんなご婦人方もイチコロよ!
リコは自信に溢れる瞳で腕を動かした。
家で今頃、血相を変えて怒っているであろう二人の過保護な男たちの顔を頭の隅に追いやりながら、リコはただ純粋に、自らの芸術の魔法をアーチのキャンバスへと注ぎ込んだ。




