69
ジルがそっとリコに布団をかけるのを見届けて、クリスは冷たい瞳で彼を見下ろした。上背はクリスの方がある。
背の高さでは勝るクリスだったが、ジルがまとう軍人特有の、実戦を潜り抜けてきた者だけが持つ威圧感は、奴隷として生きてきたクリスにとってひどく忌々しいものだった。
クリスは静かに、しかし明確な敵意を込めて声を絞り出した。
「酷い男だ。彼女をこんなふうにさせるなんて」
その言葉には、リコを傷つけられたことへの怒りと、ジルへの挑戦が含まれていた。しかし、ジルは眉一つ動かさず、冷徹な視線をクリスへと向けた。
「あなたこそ、ヒモの分際でよくそのような口がたたけますね」
ジルの言葉は、クリスの最も触れられたくない核心を正確に抉ってきた。奴隷から解放されたとはいえ、今のクリスには地位も名誉も金もない。リコに養われているという事実を、これ以上ないほど冷酷に指摘されたのだ。
だが、クリスもただ引き下がる男ではなかった。彼は、自らの歪んだ優越感を誇示するように、美しい唇の端を吊り上げた。
「そのヒモ男を望んでくれたのはリコだよ」
「優しいからあなたに同情しただけです。すぐにこの家から出て行ってください」
ジルの声には、絶対的な拒絶と、リコを守ろうとする男としてのプライドが満ちていた。クリスはその視線を受け止めながら、どこか挑発的に首を傾げる。
「リコが望めばそうすることにしよう。少なくとも僕は彼女が嫌がることはするつもりがないからね」
ジルも冷たくクリスを見返す。だがそのまま言い返さずに黙って部屋を出た。
ジルの背中が夜闇に消えていくのを見送りながら、クリスは激しい焦燥感に囚われていた。あの男は手強い。そして、リコの心の中にあまりにも深く根を張っている。
翌日、午後を少し回った頃にようやくリコが起きてきた。寝癖もそのままでぼんやりと階段を降りてくる。
昨夜の激しい酩酊のせいで、彼女の足取りはおぼつかなく、視線も定まっていない。クリスはキッチンからその様子を見つめ、いつも通りの美しい「優しい幼馴染」の仮面を装着した。
「おはよう、リコ。よく眠れた?」
クリスが微笑んで尋ねると、リコはぼんやりとした様子で辺りを見回した。
自分の部屋の天井、我が家のダイニング。
「あれえ?おはよう、クリス。……私いつの間に帰ってきたんだろ?……夢でも見ていたのかしら?」
リコは頭を押さえながら、記憶の混濁に首を傾げる。
クリスはその言葉を聞いた瞬間、わずかに笑みを深めた。あの男が送り届けてきたという事実、そしてリコがそれを「夢」だと思っているのなら、好都合だ。
「何を寝ぼけているんだい?昨日はベッドでぐっすりだったからね。ほら、顔を洗って目を覚ましておいで」
本人が夢だと思うのならそれでもいい。なかったことにしてしまえと考えて、クリスはリコを洗面所に押しやる。
真実を教えて、彼女があの男の元へと心を完全に引きずられる必要などない。この家の中では、自分だけが彼女の唯一の依存先であればいいのだ。
洗面所で顔を洗って、いつもの通り三つ編みを結び、眼鏡をかけたリコを見てクリスは遅い朝食をすすめた。
テーブルの上に並べられたのは、香ばしく焼けたパンと、手際よく調理されたスープ、卵料理。奴隷時代に嫌というほど叩き込まれた調理技術が、皮肉にも今、リコの心を繋ぎ止めるための武器になっていた。
「わあ!これクリスが作ってくれたの?おいしそう!」
「奴隷だったからね。色々と厳しく仕込まれてるよ」
クリスは優しく笑って見せる。リコは少し気まずそうな顔を見せたが、すぐにパンにかぶりついていた。
クリスの口から出た「奴隷」という単語に、リコは自らの正義感と罪悪感を刺激されたのだろう。彼女のそんな繊細な変化すらも、クリスにとっては愛おしく、そして利用すべき心の隙間だった。
「今日はこれからどうするんだい?」
クリスはリコの座るダイニングテーブルの向かいに座って片肘をついて首を傾げる。サラリと美しい金髪が視界で揺れた。
彼の整った顔立ちと、気だるげな仕草は、それだけで一枚の絵画のようだった。リコはスープを飲み干すと、真剣な表情でこれからの生活設計について語り始める。
「うーん。とりあえずクリスを買い取るのですっからかんになっちゃったから、稼がなくっちゃ。ねえ、クリスがモデルをしてくれない?すっごくかっこいいし、売れると思うの!」
「僕が?ふふ、いいよ。ご主人様のお言いつけのままに」
クリスが笑って茶化すとリコは頬を膨らませる。
リコは、自分がクリスに対して優位な立場にあると思われることを、何よりも嫌がっていた。彼女にとってクリスは救うべき大切な幼馴染であり、対等な人間だ。
「もう!クリスは奴隷解放手続きは済ませたでしょ!私はクリスのご主人様なんかじゃないよ!」
「僕はリコの奴隷のままでもよかったんだけどなあ。ご所望とあらばどんなお相手もいつでも応じるよ?」
気だるげな大人の雰囲気を纏わせて言ったクリスに、リコは頬を真っ赤にさせた。
クリスの低い、どこか艶を孕んだ声が、リコの耳元をくすぐる。
「もうー!またからかって!」
「はは、ごめんごめん」
クリスは笑った。この幸せな時間を手放したくはない。いや、手放してなるものか。
笑いながらも、彼の瞳の奥の光は静かに澱んでいる。
リコの話を詳しく聞けば、貯金が貯まっていよいよという日にあの白銀髪の男に掻っ攫われたようなのだ。
彼女が自分を救うために必死に金を貯め、ようやく地獄から引きずり出してくれるというその直前、あのジルという男が彼女の前に現れ奪い去っていった。
その事実が、クリスの心の中に激しい嫉妬と憎悪の炎を燃え上がらせる。
元は自分のものだった。手紙を送り合い、喉から手が出るほどリコを欲していたのは自分が先だったのだ。
幼少期の淡い思い出、そして暗黒の奴隷時代を支え続けた彼女への執着。先に彼女を求め、彼女に救いを求めたのは自分なのだ。後から現れたあの傲慢な軍人などに、自分の唯一の救いであり、生きる意味であるリコを渡してなるものか。
絶対にあの男に渡してなるものかとクリスは固く決意する。
そのような決意はおくびにも出さず、クリスは優しく笑ってリコを見つめた。
彼は再び、完璧な「守られるべき、愛らしい幼馴染」の顔を作り上げ、上目遣いにリコを見つめながら、その妖艶な魅力を遺憾なく発揮して見せた。
「モデルということは、僕の体をお求めで?ご主人様」
「だから、ふざけた言い方しないでー!」
リコは頬を真っ赤にしてまた怒った。
その怒る姿すらも、クリスにとっては愛おしく、そして手放したくない至高の宝だ。あの白銀髪の男がどれほど彼女の心を揺さぶろうとも、今、彼女の目の前にいて、彼女の作った空間に収まっているのは自分なのだ。
クリスは微笑みを崩さぬまま、リコのすべてを自らの腕の中に閉じ込める夢を描いた。




