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 アンジはデンバー領に島流しされてからは、数ヶ月に一度、王都に参勤に行く役人にリコの様子を見てもらい、どんな様子なのか報告の手紙をもらっていた。

 リコが絵描きになってからは、役人に頼んで、時々リコの絵を王都で買ってきてもらっていたのである。数ヶ月前の最後の報告では、確かに元気にしているとのことであった。


 手元に届く彼女の描いた瑞々しい版画だけが、アンジにとって生きる希望だった。


「お待たせしました、今在庫であるのはコチラと、コチラのみですね」


 店主が奥から持ってきたのは、二枚の丁寧に刷られた版画だった。


「両方もらおう」


「毎度あり!」


 店の主人は嬉しそうに笑う。金銭を受け取り、版画を包みながら主人は世間話を続けた。

 だが小気味よく紙を包む音の合間に、店主の口から出た言葉が、アンジの思考を凍りつかせた。


「いやあ、この絵師の絵は人気でしてね?いつもは大量に入荷して在庫を置いてあるんですが、どうやらここ数ヶ月めっきり新作が入荷しなくなりましてねえ……」


 アンジはピクリと眉を動かした。

 胸の中に、得体の知れない不吉な予感が急速に広がっていく。


「それは、一体何故なんだ?」


「どうやら風の噂では、この絵師は失踪したらしいんですよ。家も誰かに荒されたようにめちゃくちゃだったと……まあ、噂ですがね?」


 店の主人はそう言って残念そうに首を振る。

 家が荒らされ、めちゃくちゃに——その単語が、アンジの心に不安の火を灯した。娘の身に何かが起きたのではないか。


「私どもも売れ筋が無くなるのは残念です。早く復帰することを待ち望んでおりますよ」


 そう言って、主人はアンジに版画を手渡した。

 しかし、アンジの手はその包みを受け取りながらも、かすかに震えていた。


「リコが、……失踪した?」


 アンジは店から出た後、青ざめた表情で呟いた。

 王都の明るい陽光が、今の彼にはひどく冷酷に感じられた。手渡された包みを恐る恐る開き、先ほど店の主人に包んでもらった絵を取り出して眺める。


 その絵には庭師の男と、どこかで見たことのある白銀髪の男が描かれていた。

 緻密なタッチで描かれた、鋭くもどこか理知的な横顔。

 ——ジルだ。ジルによく似ている。


 ジルも王都から派遣された兵士だった。

 デンバー領の要塞で、黒城の衛兵として冷静に仕事をこなしていた、あの有能な白銀髪の兵士。

 ジルはリコに会ったことがあると言うのだろうか。絵に描かれているということは、恐らくそういうことなのだろう。


 アンジは口元を手で覆い、瞠目した。


 踵を返し店に引き返す。店の主人を問い詰め、版画の仕入れ先を聞き出し、アンジは娘の行方を探すために一日中城下を駆け回った。


 だが、リコの消息はどこにも掴めなかった。リコが住まわっていたという小さな家も、既に別の他人が住んでいる。前の住人のことを尋ねても、新しい住人は何も知らないと首を振るばかりだった。


 完全に、彼女の足跡は王都から消えていた。血の気が引き、絶望の淵に立たされたアンジは、ひとつの可能性に賭けるべく、王城へと走った。


 夜の帳が完全に降り、王城が静寂に包まれる頃。

 アンジは居ても立ってもいられず、夜分に将軍の部屋を訪ねた。

 護衛としての立場を忘れ、狂わんばかりの焦燥感に突き動かされて扉を叩く。薄い寝巻きを着た老人は、嫌な顔ひとつせずアンジを招き入れた。


 ギラス将軍は、入ってきたアンジの尋常ではない様子を、その老獪な瞳で見つめている。


「このような時間にどうしたのじゃ、よっぽどのことらしいの?」


 アンジは焦ったまま部屋へ入ると、ギラス将軍に矢継早に口を開いた。

 主君に対する礼儀も忘れ、ただただその動揺が、その大きな身体から溢れ出ている。


「将軍、大変です。リコが、リコが……失踪しました」


「なんと、リコが……まあ、先ずはかけるが良い。そして一杯水を飲め」


 ギラス将軍のあまりにも普段通りで、どこか緊張感の欠けた悠然とした態度。

 将軍に言され、アンジは水差しから水を一杯グラスに入れると一気に煽った。そして示された椅子にドサリと腰かける。

 落ち着いてなど、いられなかった。


 喉を焼くような焦燥感は、冷たい水などでは到底癒せるはずもない。


「落ち着いてなどいられません、リコを探させてください」


「ほほ、」


 ギラス将軍はアンジのその様子を見ておかしそうに笑う。

 我が子の生死の危機に直面しているというのに、この老人はまるで子供の悪戯でも見るかのように、愉快そうに口元を歪めたのだ。

 アンジの心の中に、困惑と憤りが同時に沸き起こる。


「リコが失踪したとはいつからじゃ?」


「三、四ヶ月ほど前からのようです」


「そうかそうか、……」


 ギラス将軍はほのかな灯りのみの薄暗い部屋で、表情に影を作りながら楽しそうに笑った。

 蝋燭の炎が揺れ、老人の顔に深い陰影を作る。その笑みには、明確な「意図」が含まれていた。


「笑い事ではありません」


「いやいや、すまぬすまぬ。そなたは数ヶ月共にして何も気づかなかったかのう。ほほ、」


 アンジは訝しげに眉を寄せた。この食えない爺さんは一体自分に何を隠しているのだろう。

 数ヶ月を共にして、気づかなかった?その言葉の持つ意味を、アンジの脳が拒絶するように回転を止める。


「はてさて、三ヶ月ほど前に一人の若い女がわしを訪ねてきてのう。王都から匿ってくれと言うのじゃ」


 狸爺は楽しそうに話し始めた。

 顎髭を手で弄びながら、彼は自身の仕掛けた最高の悪戯を披露するかのように、言葉を紡いでいく。


「そこでわしは護衛をつけて将軍府に匿った。その娘はよく将軍府でも働いてくれての。黒城の皆に可愛がられておった。絵が得意な娘での、神殿の補修も手伝っておったか」


 神殿の補修。絵が得意な娘。将軍府での雑用。

 アンジの脳裏に、あの地味な作業着を着て、生意気にも自分に突っかかってきた、あの娘の姿が鮮烈に蘇る。


 狸爺は愉快そうに自分の蓄えた顎髭を撫でる。


「三ヶ月ほど前というと、リコが失踪したあたりとちょうど重なるのう」


 アンジはゆっくりと目を見開いた。まさか、まさか……そんなことが。


 目の前の霧が晴れていくようだ。同時に、あまりにも衝撃的な真実が、彼の巨体を硬直させた。


「わしのかわいい『訳ありの親戚』じゃ」


「……そんな、まさか、アリナが、」


 アンジは目を見開いたまま、驚きを隠せないでいる。

 アリナ。自分が尋問し、手錠をかけ、生意気な小娘だと呆れながらも、どこか放っておけずに客室の掃除や護衛の手伝いをさせていた、あの「アリナ」が。


「アンジ、そなたならその娘を『間違いなく』守ってくれると思ってのう。護衛につけたのじゃ」


 老英雄の、深く、そしてあまりにも回りくどい慈悲の形。

 自分を信頼し、血の繋がった娘の護衛として配してくれていたのだという事実。

 しかし、それを今まで一言も明かさず、父親が我が子をそれと知らずにこき使っている様子を特等席で眺めていたという事実に、アンジの安心と、鬱憤とないまぜになった感情が爆発した。


「なんと、あなたは本当にお人が悪い!!!一言あっても良かったでしょう!」


 ガタリとアンジが立ち上がり、その巨体を唸らせる。

 彼の放つ威圧感は、並の者であれば恐怖で腰を抜かすほどのものだったが、目の前の老英雄は、そんな男たちの修羅場を何百と潜り抜けてきた怪物だ。


 ギラス将軍はちっとも怖くなさそうに「おおこわい」と呟いてみせる。


「罪人の身ゆえ、娘に顔向けできんと泣いておった若造は誰であったかのう」


 白々と答える狸爺にアンジは一瞬青筋をたてる。だがすぐに諦めたようにため息をついて椅子へ座った。そうだ、昔からこの爺はこうなのだ。いつまで経っても食えないジジイなのだ。


 アンジは深々とため息をつくと、深く深く眉間に皺を刻んだ。

 アリナがリコであったとは。あんなに側にいたのに全く気づかなかった。それをこの狸爺はおもしろがっていたのだろう。


 椅子に深く腰掛け、アンジは天を仰いだ。

 リコとの出会いが思い出される。刺客に狙われていたのを助けた日。

 尋問をして問い詰め、果ては手錠までかけた日。


 我が娘に対し、自分はなんと乱暴な真似をしてしまったのかと、アンジは今さらながらに後悔の念を覚えざるを得なかった。

 掃除して、客室棟長にこき使われた日々。

 文句を言いながらも、健気にバケツを運び、一生懸命に手を動かしていた彼女の姿。

 神殿の絵を丁寧に描く小さな手。

 あの、神聖な図画館の光の中で、細い指先にインクをつけながら、真剣な眼差しで壁画に向き合っていた彼女の横顔。


「そうだ、アリナであるリコは、ジルが王都から連れてきた」


 アンジの脳裏で、もう一つのパズルのピースが噛み合う。

 絵に描かれていた白銀髪の男はやはりジルであったかと、頭の中で繋がる。

 ジルはすべてを知っていたのだ。知っていて、彼女を王都から連れ出し、遥々北方の地まで彼女を守り抜き連れてきたのだ。


 しかし、同時にアンジの胸を締め付けたのは、彼女がこれまで歩んできたであろう、過酷な道のりへの残像だった。


 出会った時リコは、鶏ガラのように痩せていた。アンジは女と気づかなかったほどだ。


 長髪を雑に隠し男装をして、必死に自らの身を守ろうとしていた小さな身体。

 長い旅路で薄汚れ、酷い矢傷も負っていた。

 あの痛々しい傷跡を思い出すたび、父親としての無力さと後悔が、アンジの心を激しく抉る。

 アンジは胸が締め付けられる思いだった。孤児院に捨て置かれ、苦労したのだろう。ぎゅっと拳を握り締めると、手のひらに爪が食い込む。


 自分が罪人として北方に縛られている間、彼女はたった一人で、あの広大な王都の片隅で、どれほどの孤独と戦いながら絵筆を握り続けてきたのか。その苦労は、想像を絶するものだったに違いない。


「葬儀が終わればすぐにデンバーに帰る。娘との再会が楽しみじゃの?アンジ」


 狸爺にからかわれ、アンジは怒ることもできず、力なく頷いた。


 ——しかし、葬儀を終え、急いでデンバーに帰ってみればジルとリコはとっくに王都へ出立しており、見事行き違いとなったのである。

 


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