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突如として奪われた視界と自由。ジルの大きな身体がリコの前に立ちはだかり、彼女を木製の扉へと縫い付けた。彼の瞳は、先ほどの静かな怒りとは異なり、独占欲と苛立ちにギラギラと肉薄していた。
「それはヒモ男となんら変わり無いではないですか」
「え、?」
ジルの口から飛び出した「ヒモ男」という単語にリコは一瞬、言葉の意味が理解できずに目を瞬かせた。
「どうせ金銭の代わりに体で払うとか訳の分からないことを言い出しますよ!すぐに捨ててしまいなさい、そんな男!」
ジルの言葉にリコは目を剥いて反抗した。
あまりにもクリスを侮絶した言い草、そして自分の行動を否定するような彼の態度に、リコの心の中の導火線にも火がついた。
クリスがどれほどの苦痛に耐え、自分がどれほどの覚悟であの「八千万」の契約を乗り越えたか、ジルは何も知らなすぎる。
「そんなこと出来るわけないでしょう!大体クリスを助けるのにいくらかかったと思っているんですか!クリスだって望んでこんな状況になったんじゃないんです!だからクリスの面倒をしばらくみるくらい……」
「言わせておけばクリスクリスとやかましい」
ピキリ、とジルが額に青筋を立てる。
リコの口から他の男の名前が連呼されるたびに、脳内の血管がはち切れそうになる。
何を今更とリコが睨もうとすると、突然ガシリと両手で頭を掴まれ、唇に柔らかいものが触れた。
「ん、……!」
リコが驚いて瞠目していると、ジルが食べるようにリコの唇を貪る。唇同士が激しく触れ合い、ジルの震えるまつ毛が目の前で揺れていた。
それは、デンバー領のお祭りの夜に交わした、あの優しく確かめ合うような口付けとは、完全に質の異なるものだった。強引で、貪欲で、自らの所有権を強烈に主張するような、息もできないほどの接吻。
その唇の温度と、想像以上に柔らかい感触に驚いてピクリとも動けないでいると、ジルが唇を離した。
「……ようやく黙りましたか」
鼻先が触れ合うような距離でジルが囁く。
彼の熱い吐息がリコの唇をかすめ、その低い声が鼓膜を震わせる。ジルの瞳に支配欲が揺らめいていた。
「あなたはまだ、自分が誰のものか分かっていないようですね」
ジルがそう言うと、リコは頬を真っ赤にして彼を睨み上げた。
嫉妬に狂って強引に唇を奪っておきながら、上から目線で自分をあしらうこの男の態度が、リコは無性に腹立たしかった。
恥ずかしさと、怒りと、そして言葉にできない高揚感がごちゃ混ぜになったリコの右手が、宙を舞う。
バッチーン!
同時に間髪入れずに暗がりの部屋に派手な音が鳴り響く。
静まり返った男子宿舎の一室に、激しい打撃音が炸裂した。ジルは自分の頬に突然走った鋭い平手打ちの痛みに瞠目する。
まさか、平民の、それもあれほど小さく非力なリコから、これほど完璧な一撃を食らうとは夢にも思っていなかったのだ。
「っ」
「ジ、ジルさんのバカぁっ!!」
ドンっとリコに両手で胸を押されて一歩、ジルは後ろへタタラを踏む。リコの全力の両手に押され、ジルの身体がわずかに後退した。
頬を膨らませたリコはその隙にジルが持ち帰った度数の高い酒瓶をかっぱらう。
彼女の行動は、ジルの予測を遥かに超えていた。怒りに任せて部屋を飛び出すかと思いきや、彼女の狙いは、ジルが机の上に置いたあの高純度のアルコールが詰まった大きな酒瓶だった。
「こんなもの、」
何を考えているのかリコが豪傑に酒瓶の蓋を開ける。ポンっと瓶の口が開く小気味良い音が部屋に響いた。続いてリコは杯を出すまもなくグビグビと酒を煽る。
それはまさに、北方の荒くれ者の戦士か、あるいは破れかぶれのギャンブラーのような豪快さだった。瓶の口から直接、強い酒がリコの喉へと流れ込んでいく。慌ててジルは手を伸ばした。
「リ、リコ!それはかなり度数の高い酒で……!」
「うるさいです!」
「リコ!」
まるで水か何かでも飲むように豪快に酒を煽る姿を呆気にとられてジルは見やる。リコがぷはっと小さく息継ぎをする様子を見て、ようやく我に返りジルは慌ててリコから酒瓶を奪い取った。
強引に奪い返したときには、すでに瓶の中身は目に見えて減っていた。リコの口元から、一滴の無色透明な液体が伝い落ちる。濃いアルコール臭が漂う。
ジルの部屋の狭い空間に、むせ返るような酒の香りが充満した。
次いで、ビシリとジルの鼻先に、リコの可愛らしい人差し指が突きつけられた。
その指先はわずかに震えていたが、彼女の意志はこれまでにないほど強固だった。
「分かってないのは、ジルさんの方です!」
「何を、」
わずかに潤んだ瞳が、ぐっと近寄ってでジルを見上げる。
酒の急激な回りの早さに、リコの瞳はすでに焦点を失いかけ、潤んだ熱を帯びていた。リコの上気した頬の理由を図りかねていると、リコがグイッとジルの胸元を捻り上げた。
リコの小さな手が、ジルの制服の胸ぐらをがっしりと掴む。その力強さに、ジルは思わず気圧された。
「わ」
もう一発、平手打ちが飛んでくると焦ったジルだったが、だがしかしやってきたのは鋭い頬の痛みではなく、ぶつかり稽古のようなリコの口付けだった。
ゴチンと硬質な音が鳴りそうなド下手なキスをジルにかまして、リコの唇はあっという間に離れてゆく。
それはキスというよりも、文字通りの「衝突」だった。お互いの歯や唇が不器用にぶつかり合い、奇妙な音を立てる乱暴な口付け。
しかしそこにはリコの、言葉にできないすべての感情が詰め込まれている。やっぱりリコの頬は真っ赤だ。
耳の裏まで真っ赤に染め上げ、呼吸を荒くしながら、リコはジルの胸ぐらを掴んだまま離さない。
驚きと、戸惑いと、喜びと、突然の出来事にごちゃ混ぜになったような感情が降ってきたジルは、リコに胸ぐらを掴み上げられたまま、言葉も出ずに口をへの字に曲げた。
軍人としてのプライドも、先ほどまでの嫉妬心も、リコのこの想定外すぎる「逆襲」によって、すべて木っ端微塵に粉砕されていた。ジルの唇にはただ、強い酒の味とリコの柔らかい感触が残っている。
「ジルさんこそ、あなたがだれのものなのか、」
スウ、とリコが胸いっぱいに酸素を取り込んでいる。因みにいまだにジルの胸ぐらを掴み上げたままだ。
完全にアルコールが脳を支配しているリコは、ろれつの回らない口調で、しかし凄まじい気迫で演説を続けようとする。
「だれのものなのかあ、わかってはひ」
「リコ!」
胡乱な目をして突然よろよろと倒れ込もうとしたリコを、ジルは慌てて抱えた。
限界だった。普段酒など一口も飲まない平民の少女が、軍人用の強い酒を煽ったのだ。急激な睡魔と酩酊が、彼女の意識のスイッチを強制的に切りにかかっている。
それでも酔っ払いは演説をかまそうと力なく腕を振り回している。ジルの広い胸に顔を埋めながら、なおも彼女の口からは戯言が漏れ出していた。
「ジルさんわあ、わたひのものでえ、」
「わかりました、十分わかりましたから水を一杯」
ジルは降参の意を示すように、苦笑を浮かべながら彼女の小さな身体を両腕で抱きとめた。彼女の放った「ジルさんは私のもの」という言葉が、彼の胸の奥の嫉妬の火を、穏やかな温もりへと変えていく。
「わたひジルさんにあやまりたくてえ、」
「いえ、私が大人気なかったです。余裕がありませんでした」
妙な気持ちでよしよしとジルは酔っ払いを宥める。
自分の胸元でぐずりながら、必死に謝罪を口にしようとするリコが、愛おしくてたまらない。チラリと酒瓶を見ると、中身は既に半分近く減ってしまっていた。
よくぞこれだけの量を急激に飲んで無事でいたものだと、半ば感心すらしてしまう。しっかり仕上がった酔っ払いリコの体は上気して熱い。
その熱が、ジルの身体にも伝染していくようだった。
リコを抱きかかえるジルを見上げて、リコは愛おしそうにその頬に触れた。
彼女の小さな、熱を持った手のひらが、先ほど自分が平手打ちを与えたジルの頬を、今度は優しく撫でるるように包み込む。そのあまりにも現金で、しかし純粋な愛情表現に、ジルの心は完全に白旗を上げた。
そんなことをされてはもう、ジルは怒るに怒れない。
あれほどの嫉妬に狂った自分が馬鹿馬鹿しく思えるほど、目の前の少女はまっすぐだ。
フッと口元を緩めて彼が笑うと、二ヘラと締まりのない笑みを残して酔っ払いはスヤスヤと目を閉じた。
ジルの腕の中で、完全に意識を手放したリコは、小さな寝息を立て始める。
ジルは溜息をつきながらも、その身体をそっと抱き上げ、部屋の奥にある自らのベッドへと横たえた。毛布を優しく掛け、彼女のメガネをそっと外して枕元に置く。
静まり返った部屋の中で、ジルはベッドの脇に腰掛け、リコの無防備な寝顔を見つめた。彼女の髪を指先で弄びながら、彼は観念したように眉を下げる。
(……全く、敵いませんね)




