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「ジルさん!」


 弾かれたように顔を上げると、微かな宵闇の中に、彼が立っていた。

 しかし、その姿は普段の端正な立ち居振る舞いのそれとは少し異なっていた。服の襟元はわずかに緩められ、その表情は一週間の激務の疲労と、先ほどの精神的打撃によって、ひどく暗く沈んでいる。


 ジルは不機嫌そうに大きな酒瓶を片手に立っていた。


 剥き出しの酒瓶を持っているという事実そのものが、彼の心の乱れを何よりも雄弁に物語っている。ジルは、門の前に小さくうずくまるようにして待っていたリコを、冷ややかさと、それ以上の戸惑いが混ざった目で見下ろした。


「……ずっと待っていたんですか?」


 ジルに尋ねられてリコは頷いた。

 冷え切った身体のせいで上手く声が出ず、ただ必死に、何度も何度も首を縦に振る。その健気な姿に、ジルの瞳の奥が、わずかに揺れた。


「ジルさんの、誤解を解きたかったんです」


「……仕方ありませんね」


 ジルは疲れたように溜息をつく。

 その溜息には、呆れと、そして彼女を完全に突き放すことのできない己の甘さへの諦めが含まれていた。       

 こんな寒空の下で自分を待って震えていた彼女を、そのまま放置して帰れるほど彼は冷酷にはなりきれなかった。


「今日は店もどこも閉まっていますし……ついてきてください」


 そう言ってジルはリコに背を向けた。慌ててリコはジルについて行く。

 彼は正門へは向かわず、宿舎を囲む高い鉄柵に沿うようにして歩き始めた。リコはその広い背中を見失わないよう、必死に小走りで後に続く。


 宿舎の柵に沿ってしばらく進むと、一部柵が壊れている箇所がある。

 木々が生い茂り、外灯の光も届かない死角。そこの柵をガサガサと取り外してジルはリコに敷地内に入ってくるように促す。

 手慣れた動作で鉄柵の隙間を作るジルの姿は、普段の規律正しい彼からは想像もつかないもので、リコは少し目を丸くした。


「男子宿舎は女子禁制ですから……みんなこうやって連れ込んでいます」


 ジルはそういうと取り外した柵をそっと元に戻す。

 その口調は平淡だったが、どこか自嘲気味だった。どうやらここの場所は先輩方から代々受け継がれるらしい。


 いかなる厳格な軍の規律であれ、血気盛んな若い兵士たちの情熱を完全に縛ることはできない。そんな宿舎の「裏の伝統」に、まさか自分が関わることになるとは思いもしなかったが、今のリコにとっては好都合だった。


 ジルはリコの手を引いて奥の建物に向かった。

 彼の大きな手が、リコの冷え切った手を包み込む。ジルの手がまるで燃えるように熱く感じた。


 まだポツリポツリと人通りがあり、隠れるようにコソコソと移動する。

 見回りの兵士や、酔って帰ってきた他の隊員の影が見えるたび、ジルはリコの身体を自らの外套の影に隠し、影から影へと移動した。


「入ってください」


 やがて一つの扉の鍵を開けて、ジルはそう言った。リコは急いでその部屋に入る。

 背後で静かに鍵が閉まる音が聞こえ、リコは部屋の様子を見回した。

 そこは質素なワンルームで、部屋の奥にはベッドが置かれてある。


 飾り気のない木製の机と椅子、簡素なクローゼット、そして綺麗に整えられたシングルのベッド。壁には地図や軍の予定表が貼られているだけで、いかにも独身の若い軍人の部屋といった趣だった。どうやらここがジルの部屋らしい。


 彼のプライベートな空間に足を踏み入れたという緊張感が押し寄せるよりも早く、リコの身体は行動を起こしていた。

 ジルがガチャリと扉を閉めた瞬間、リコは後ろから彼にギュッと抱きついた。


 ジルの広い背中に、自分の顔を強く押し付ける。彼の制服から香る、インクと夜風、そして微かなアルコールの匂い。リコは彼を二度と離さないとばかりに、その腰に細い腕を回し、溢れ出す言葉を堰を切ったように吐き出した。


「お、驚かせてしまってごめんなさい。あの人が、以前言っていた奴隷のクリスなんです。あの時はただ踏み台に乗って戸棚の中の物を取ろうとしたら、バランスを崩してしまってあんなことに……ですから、ジルさんの思ってるようなことは何もないんです!」


 息もつかずに一気に捲し立てる。

 キッチンの床で押し倒されていた、あの致命的な光景の真相。リコにとっては、単なるドジと不運が重なった結果の事故でしかなかったのだ。

 背中に感じるジルの身体が、リコの必死の弁明を聞くうちに、徐々に強張りを解いていくのが分かった。


「まあ、落ち着いて後から考えてみればそういうことだろうなとは思っていました。ただ、どうにも腹が立ったものですから……」


 ジルの声は、先ほどまでの氷のような冷たさを失い、いつもの呆れたような、しかしどこか心地よい低音に戻っていた。

 冷静沈着な彼のことだ。宿舎までの帰路、冷たい夜風に吹かれながら頭を冷やせば、リコが自分を裏切って他の男と不貞を働くような器用な真似ができるはずがないことくらい、容易に想像がついたのだろう。


 私も大人気なかったですね、とジルは呟いた。

 暗い室内で、自らの嫉妬心の醜さを認めるような彼の言葉に、リコは張り詰めていた心の糸がふっと緩むのを感じた。落ち着いている様子の彼にリコはホッとする。


「もう怒っていませんか?」


「はい」


 ジルの短い、しかし確かな返答。

 リコは安堵してジルから体を離した。

 最悪の決裂だけは免れたのだという喜びが、彼女の全身を包み込む。ホッとして思わず笑みをこぼす。

 リコの顔に、いつもの無防備で、どこか緊張感の足りない明るい笑顔が戻った。


「よかった!クリスと二人暮らしすること、ジルさんに反対されたらどうしようかと思っていたんです!」


「……は?」


 ジルの声のトーンが、一瞬にして再び不穏な低さへと急降下した。部屋の温度が再び数度下がったかのような錯覚。リコはその変化に気づかず、無邪気に言葉を続けた。


「クリスは私が手続きを済ませて奴隷から解放されたんですけど、当然お金も行く宛てもなくて……しばらくは私と一緒に暮らすんです!」


「……一緒に、暮らす……?生活の面倒はあなたがみるんですか?」


 ジルが眉根を寄せた。

 その瞳の奥に、先ほど消えかけたはずの「不機嫌」の炎が再燃していく。一週間の激務を経て、ようやく彼女と再会できたと思えば、見知らぬ美青年の奴隷を解放しただけでなく、新居で同棲を始めるという。一人の男としての理性が、再び限界を迎えようとしていた。


「はい!」


 ニコニコとご機嫌に宣言したリコを見て、ジルは腹に据えかねたようにリコを玄関扉に押し付けた。

 ドン、と鈍い衝撃が背中に当たり、リコは驚いてジルを見上げる。




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