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「待って、ジルさん……!」


 バタンと扉が閉まり、慌ててリコは追いかけようとした。

 ジルのあの見たこともないほど凍りついた瞳、地を這うような低い声が、リコの胸を鋭く抉っていた。


 誤解だ。完全に最悪のタイミングが重なっただけの、とんでもない大誤解なのに、彼は弁明の余地すら与えずに去ってしまった。冷たい拒絶の余韻が残る玄関へ向かって、リコは反射的に足を動かす。

 だが、その手をクリスに引かれて止められた。


「リコ、もう暗いんだし危ないよ?」


 クリスの声には、純粋に彼女の身を案じる響きがあった。王都の夜は、特に前国王の葬儀が執り行われた本日、不穏な空気が漂っている。ましてや、表通りから外れたこの宅地エリアは灯りも少なく、夜闇は深い。

 だが、リコにとってはそのような危険など、今のジルの絶望に満ちた表情に比べれば些細な問題でしかなかった。


「ダメ、行かなくちゃ!」


 焦るリコにクリスは綺麗な眉根を寄せた。

 突如として乱入し、凍りつくような殺気を放って去っていった白銀髪の男。そして、それに対して見たこともないほど取り乱し、必死にしがみつこうとするリコの姿。

 クリスにとっても、その男の存在は無視できない。


「あの男は誰?」


「あれは、ジルさんって言って、……私の大事な人なの!」


 リコの声は震えていたが、その言葉には一切の迷いもなかった。「大事な人」という響きが、狭いキッチンに響く。


「……だいじなひと」


 クリスはその言葉を、どこか寂しげに、確かめるように呟いた。彼にとってリコは命の恩人であり、唯一の光だ。しかし、彼女の心の中には自分以外の、それもこれほどまでに感情を激しく揺さぶる「誰か」が存在する。

 クリスは静かな衝撃を受けているようだった。だが、リコには彼の繊細な心理を思いやる余裕は一分も残されていない。


「だから、行かなくちゃ!」


 リコは手を振り払って家を出た。

 クリスの制止を振り切り、夜の冷気に飛び出す。だが、既に辺りは暗く、ジルの姿は見えない。

 表通りへと続く未舗装の道は、すっかり夜の闇に呑まれていた。先ほどまで窓から見えていた美しい夕暮れはどこへやら、街灯の乏しい路地は、ジルの行方を完全に覆い隠している。


「まだ、どこか近くにいるはず……」


 リコは焦ってジルを探した。

 靴音が夜の静寂に虚しく響く。息を切らし、何度も立ち止まっては暗闇の奥を見つめ、彼の特徴的な白銀の残影や、あの背中を探した。

 だが通りは暗く、見通しも悪い。しばらく辺りを探してみたが、結局ジルは見つからず仕舞いだった。


 肩で息をしながら、リコは冷たくなった己の両手を見つめた。夜風が容赦なく体温を奪っていく。

 胸を締め付けるのは、去り際のジルのあの傷ついたような、すべてを諦めたような瞳だった。このまま誤解されたまま夜が明けてしまえば、二人の間の大切なものが本当に切れてしまうのではないか——そんな恐怖が、リコの小さな身体を支配する。


 眉を下げてとぼとぼとリコは歩く。

 一度、家に戻るべきか。いや、そんなことをしても心が落ち着くはずがない。


 (そうだ、宿舎にいるかも……!)


 思いつくとリコは急いで宿舎へ向かった。

 宿舎は王城の近くにある。たくさん棟が建ち並び、王城で働く大勢の人がそこで生活していた。ジルもそこで住んでいると言っていた。


 王都の中心部にそびえ立つ王城の影に隠れるようにして、整然と並ぶ巨大な石造りの建築群。それが騎士や軍の士官たちが集う宿舎だった。リコは必死に記憶の糸を繰り寄せ、以前ジルから聞いていた大まかな場所を頼りに、夜の街をひた走った。


 もしかしたら帰っているかもしれない。

 一抹の望みを胸に、リコは宿舎を訪ねたが、残念ながらジルはまだ帰っていなかった。

 宿舎の重厚な正門を守る受付のおじいさんにそう言われてリコはガックリと肩を落とす。


 部外者は入ることはできないので仕方なくリコは宿舎の前の門で待つことにした。

 夜の帳が完全に降り、王都は静まり返っている。


 どれくらい待っただろうか。

 一時間、あるいはそれ以上か。今日は王様の葬儀が行われた日で、店も遅くまでは開いていないはずだ。

 国中が喪に服す特異な夜。街の灯りはまたたく間に消え去り、宿舎の周囲を行き交う人影もまばらになっていく。冷たい石畳の上に佇み、リコは寒さに身を震わせた。


 リコが俯いてジルを待っていると、彼に買ってもらった靴が視界に入る。

 デンバー領で過ごした日々の中、彼が自分のために選んでくれた、足にぴったりと馴染む上質な靴。その靴を見つめていると、ジルのことが次々とが思い出され、胸がツンと痛む。あんなにまっすぐな彼を、自分はひどく傷つけてしまったのだ。


 秋も深まり夜も冷えるようになってきている。

 北方の寒冷な気候とはまた違う、王都特有の湿気を含んだ芯から冷える夜風が、リコの薄い衣服を通り抜けていく。リコは冷えた指先にそっと息を吹きかけた。

 白く濁った息が、闇に溶けて消える。寒さと孤独と不安で、今にも泣き出しそうになっていた、その時だった。


「そんなところで何をしているんですか」


 静かな声が聞こえて、リコは顔をあげる。そこには待ち侘びた男が立っていた。




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