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 二週間の旅路を終えて王都へと帰還したジルを待っていたのは、ロマンチックな余韻など微塵もない、冷酷な現実としての「仕事」の山だった。

 ジルは久しぶりの自分の事務机の上で、膨大な量の仕事に忙殺されていた。

 デンバー領への遠征や、道中でのリコとの逃避行のような日々が、まるで遠い幻であったかのように思えるほど、目の前の現実はあまりにも泥臭く、そして殺人的な物量だった。

 インクの匂いが染み付いた軍の執務室。鬼のような形相でジルは書類に目を通し、羽ペンを動かし続けている。

 ふと手を止め、窓の外に広がる王都の夕空を見上げるたび、ジルの胸には一人の少女の姿が浮かんで消えた。

 兵長に挨拶をして、仕事が終わればリコの元へ行こうと思っていたのに、と肩を落とさずにはいられない。

 軍人としての職責がジルを無慈悲に王城へ引き留める。

 さらに、ジルの帰還を文字通り「狂喜乱舞」で迎えた存在が、彼の作業効率を著しく低下させていた。

 帰ってきたジルの姿を見て泣いて喜んだのは、同僚の赤髪の男、シャルだった。

 事務室に顔を出したジルを見るなりその男は涙を流してジルに泣きついたのだ。

 大の男が、しかも鍛え上げられた軍人が、人目もはばからずにボロボロと大粒の涙をこぼし、ジルの制服の胸元に顔を埋めて激しく取り乱している。その姿は、周囲の隊員たちが引き気味に視線を逸らすほどに哀れで、かつ騒がしかった。


「ジル……やっと帰ってきてくれたか!急に任務で出張だなんて、俺はひとりで事務を任されて本当に、本っっっ当に大変だったんだからなあ!!帰ってきてくれて嬉しいよ!!」


 シャルはジルに抱きついて歓喜の雄叫びをあげ、いかに今まで自分が苦労したのかを切々と訴える。

 あまりの勢いに、ジルは窒息しそうになりながらも、その赤髪の頭を必死に押し返そうとした。しかし、シャルの怨念とも言える執念の抱擁は固く、なかなか離れようとしない。それほどまでに、ジルという「事務処理能力の持ち主」を欠いた執務室は、地獄と化していたようだった。シャルは涙を袖で拭いながら、この期間に溜まりに溜まった愚痴のすべてを、堰を切ったように吐き出し始めた。


「お前がいないと資料がどこにあるかわかんなくなるし、隊の奴らの字は汚くて読めねえし、領収書はまとまんねえし、ディートは何回言っても訳わかんねえ長文の報告書をあげてくるしよお!!あいつ道端に咲いていた花が綺麗で思わず女に贈りたいと思ったとかまで書いてくんだぜ!?事件の報告書にそんな記載いらねえよ狂ってるわこの世界!」


「ええぇ……」


 ジルは思わず、心底げんなりとした声を漏らすしかなかった。

 普段は冷静沈着で通っている彼も、同僚たちのあまりの無能っぷりと、ディートという問題児のポエジーすぎる報告書の内容には、呆れ果てて言葉を失う。事件の捜査報告書に個人的な恋愛感情や花の描写を持ち込むなど、軍人としての規律は一体どこへ行ったのかと、頭痛がしてくるのを覚えざるを得ない。


「ほらほら事務を続けて!お前が帰ってきてくれて俺は本当に嬉しいよお」


 シャルは咽び泣きながらちゃっかり自分の机にある書類の山を半分ジルの机に置いた。

 その書類の移動速度だけは、普段の訓練からは想像もつかないほど迅速かつ正確だった。ドサリ、と音を立ててジルの目の前に積まれた紙の束は、誇張抜きでジルの顔が隠れるほどの高さがある。

 その量を見てジルは気が遠くなる。

 仕事の後はリコに会いに行こうと思っていたのに、これではリコに会うどころかしばらく職場に缶詰になりそうだ。

 ジルは心の中で大きな、深い溜息をついた。リコのあのメガネの奥の瞳や、自分を焦らせる無防備な笑顔が、はるか遠くの手の届かない場所にいってしまったかのような絶望感が、ジルの全身を襲っていた。


 そのジルの不吉な予感は、完全に的中することとなった。

 ジルは一週間、シャルと缶詰状態で仕事に追われていた。

 それはまさに、睡魔とインクとの果てしない戦いだった。家に帰ることも許されず、執務室の硬い仮眠用ベッドで数時間だけ目を閉じ、目が覚めればまた山のような書類にペンを走らせる日々。

 ようやく仕事に目処がついたのは、もがりの期間が終わり、王の葬儀が行われる日のことだった。

 前国王の崩御という国家の重大事。王が急逝した後、即日ヘクセル王子が新たな王に即位し、恩赦が施されている。

 新王の誕生に伴う大規模な恩赦は、民衆にとっては慈悲深き新時代の幕開けであったが、それを事務的に処理しなければならない前線の下級兵士や役人たちにとっては、文字通りのデスマーチを意味していた。恩赦により牢から解かれた囚人たちの書類も山のようにあったのだ。

 囚人の身元引受書、過去の犯罪歴の抹消手続き、釈放通知書の作成——それらの一枚一枚に不備がないか確認する作業が、ジルの精神と肉体を限界まで削り取っていた。

 葬儀の鐘が王都の空に厳かに響き渡る中、ようやく最後の書類に判を押し終えたとき、外の景色はすっかりと黄金色の夕暮れへと移り変わっていた。


「ようやく宿舎に帰れるな……」


 シャルが、一週間前とは比べ物にならないほどゲッソリと窶れた顔で、遠い目をして言った。その瞳からは完全に生気が失われており、ただの動く屍のようだ。


「ああ、女の子に触りたい……」


 切ない声を出すシャルに、普段なら軽口を言って突っ込むところであるが、今回ばかりはジルも同感である。

 普段のジルであれば、「下品なことを言うな」と冷ややかに一蹴していただろう。だが、今の彼にはそんな余裕はなかった。それどころか、シャルのその俗っぽくも切実な叫びが、自分の胸の奥にある抑えきれない渇望と完全にシンクロするのを感じていた。

 リコに会いたい。

 あの小さくて、放っておくとすぐに事件に巻き込まれるような危なっかしい少女に会いたい。

 彼女のあの柔らかい身体を抱きしめ、彼女に触れて癒されたいのだ。


「今日ばかりは定時で上がりましょう」


 ジルは普段の鋭い口調とは異なり、どこか必死さの滲む、掠れた声で提案する。これ以上の残業は、精神が崩壊する。


「異論なしだ」


 二人は力なく頷き合って、定時で帰るために最後の力を振り絞って書類に向かった。

 最後の数十分、二人の羽根ペンの動きは、限界を超えた執念によって神速の領域に達していた。


 予定通り、定時で上がれた二人は重い足を引きずりながら宿舎へ帰った。

 一週間の汚れを落とすため、シャルはこの後花街へ乗り込むらしい。相変わらずのバイタリティだと半ば呆れつつも、ジルにとってはそんなことはどうでもよかった。

 ジルは宿舎でシャワーを浴びると、いそいそと着替えてリコの新しい家に向かった。

 軍服を脱ぎ捨て、動きやすい私服に着替える。新しい家が見つかったとリコからは連絡をもらっていた。

 王都に到着した翌日、彼女が城門の受付に残していった、小さな文字で書かれた住所。そのメモを何度もポケットから取り出しては確認し、住所を頼りにジルはリコの家を探した。

 王都の中心部にある華やかな表通りを離れ、静かな住宅街が広がる宅地エリアを進んでいくと、目指す場所にその建物はあった。

 こじんまりとした三角屋根の小さな家があった。

 以前、彼女が住んでいたというあの今にも崩れそうなボロ家と同じく、建物の外壁などはどこか古びているが、家自体は以前のものよりは広そうだ。少なくとも、二人の人間が健全に暮らすには十分なスペースがあるように見えた。

 家のまわりには低い垣根が巡らされており、狭いが小さな庭もある。

 その庭の黒い土の上に、いくつかの色彩が目に飛び込んできた。庭には植えられたばかりなのであろう季節の花が咲いていて、リコがあの小さな手で早速庭の手入れをしたのかと思うと自然と笑みが湧いてきた。

 慣れない土いじりをして、顔や衣服を泥だらけにしながら、えへへと笑っているリコの姿がありありと脳裏に浮かぶ。それだけで、一週間の激務の疲労が、嘘のように霧散していくのを感じた。


 窓からは煌々と灯りが漏れている。

 日は沈んで辺りは暗かったが、家の中からは美味しそうな食欲をそそる香りが漏れていた。

 香ばしいお肉の焼ける匂いと、煮込み料理の甘い香り。リコが食事でも作っているのだろうか。

 ようやくリコに会える喜びで、隠しきれない笑みを携えてジルはドアを三度ノックした。

 コン、コン、コン、と心地よい木の手応え。

 だが、しばらく待ってみても返事は無かった。

 室内からは確かに物音が聞こえる。それなのに、一向に足音が近づいてくる気配がない。おかしい。いつものリコならすぐに飛んできて扉を開く。

 自分の足音に気づいて、「ジルさん!」と嬉しそうに飛び出してくるはずの彼女が、なぜ出てこないのか。

 家を間違えたのだろうかと一瞬不安になりながらジルが取っ手を回してみると、鍵はかかっておらず扉は静かに開いた。

 王都の治安を考えれば、不用心極まりない話だ。やっぱり自分がついていてやらなければダメだな、などと保護者めいた思考を巡らせながら、ジルは「お邪魔します」と声をかけようとして——その言葉を、喉の奥で完全に氷結させた。


 玄関扉を開くとすぐに小さなキッチンとダイニングルームが目に飛び込んできた。

 仕切りのない、見通しの良い構造。

 そこで目にした光景にジルは目を剥いた。

 視界が、急速に色を失っていくような感覚。心臓がドクンと大きな脈動を打ち、全身の血の気が一気に引いていく。


 リコが、見見知らぬ男に、押し倒されている。


 キッチンの床の上。リコの小さな身体の上に、一人の男が完全に覆い被さっていた。





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