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リコは嬉しくなって飛び跳ねた。
数年間の苦しい生活、周囲からの白い目、そしてあの過酷なデンバー領への道中——すべては、この瞬間のためにあったのだ。とうとうクリスに会えるのだ。その喜びを隠そうともせず、子供のように跳ねるリコの様子を、男はじっくりと観察している。その冷徹な瞳の奥に、ほんの少しだけ、おかしげな光が灯った。
使用人が部屋を出ていき、次の瞬間までの短い静寂が訪れる。
リコはじっとしていられず、先ほどから気になっていた壁の絵画に再び視線を向けていた。絵描きとしての血が、その美しい画面の違和感をどうしても見過ごせなかったのだ。
「そういえばペンバー様」
不意にリコが話しかけた。一介の平民が貴族の重鎮に対して気安く口を開くなど本来ならありえないが、リコは絵のことになると周囲が見えなくなる。
「なんだ?」
男は少し不機嫌そうに応じたが、リコの迷いのない視線に促されるように言葉を返した。
「その絵は、どちらで?」
リコは壁にかかっている絵を指し示した。夕焼けの湖面に城が映し出されている様が美しく描き上げられている。光と影のコントラストが見事で、一見すれば歴史的な巨匠の名画に見える代物だった。
「貰い物だ。貴重な絵ゆえ、私の執務室に飾っている」
「貰い物、ですか……」
リコは首を傾げた。メガネの奥の瞳を細め、絵の細部をじっと睨みつけるように観察する。
その様子をペンバーは訝し気に伺う。少女の顔から無邪気さが消え、一人の絵師として鋭い眼差しに変わったのを、男は見逃さなかった。
「何か?」
「あの、いえ、私は絵師なので少しは絵に詳しいのですが……」
「だから何だ」
言葉を濁したリコに、男は苛立たしげに問い詰めた。
その声のトーンは低く、リコの言葉の先にあるものを引き出そうとする強い意志が込められていた。
「朱の顔料がおかしいのです」
「おかしいとは一体どう言うことだ」
ペンバーは深く椅子に座り直した。これは真面目に話を聞こうとする時の彼の癖である。
「その絵は百五十年ほど前に描かれた絵です。その頃はまだ朱は練女花という花の球根から作られていました。練女花で出来た朱は高いですが、独特の色合いを出しとても美しいのです。ですが、この朱はどうも最近の物のように見えます。この辺りのツヤなんか、練女花で作った朱には無いもので……うーん」
リコは絵の下部、夕日の光が反射する波打ち際の描写を指差しながら、滑らかに解説した。
長年の画材の研究と、自身の絵師としての本能が、その完璧に見える名画の「致命的なチグハグさ」を完璧に見抜いていた。
「贋作ということか?」
男の声が、微かに冷徹な響きを帯びる。
「いえ、贋作というにしては絵に迫力もありますし、力強さも緻密さも本物のようです。ですが、何かおかしいのです。一度専門家を呼んで鑑定してみては?」
「……忠告を聞き入れることにしよう」
ペンバーは興味深気にリコをじっくりと見た。
普通の人間なら、自分の持ち物をニセモノ扱いするような発言を貴族の前でするなど、恐ろしくて到底できない。しかし、この少女はただ純粋に、絵師としての誠実さからその事実を告げている。何も気づいていないリコは不思議そうに絵を見ては首をかしげている。その飾らない豪胆さと、一瞬で名画の秘密を暴く真贋にペンバーは目を細めた。
彼こそ年寄衆の重鎮、ペンバー氏であった。
新王ヘクセル王子の即位を巡り、王都の政界の裏で暗躍する影の支配者。そして何を隠そう、リコの暗殺を計画し、刺客を差し向けた張本人である。
だが、そのような人物の前に堂々と姿を現す豪胆さをペンバーは思いがけず好ましいと感じた。
王が崩御し、新体制が確立された今となっては、もはや小娘一人など狙うに足りぬ存在になってはいたが、まさか自分の命を狙ったかもしれない男の屋敷へ、自ら堂々と来るとは思いもよらなかったのだ。
恐怖に震えるどころか、自分の妻から奴隷を買い叩き、さらには自分の執務室の名画の違和感まで指摘してみせた。この少女の底知れない器の大きさと、どこか抜けたオタク気質のような純粋さに、ペンバー氏は奇妙な敗北感と、それ以上の痛快さを覚えていた。
やがて、執務室の重い扉が静かに開いた。
使用人に促されて部屋に入ってきたのは、少し痩せてはいるが、リコの記憶にある通りの優しく端正な面影を残した青年——クリスであった。
クリスは部屋に入るなり、メガネをかけたリコの姿を見て、信じられないというようにその目を見開いた。
「リコ……?まさか、君がどうしてここに……」
「クリス!」
リコは我慢できず、主人の前であることも忘れてクリスのもとへと駆け寄り、その細い身体を強く、強く抱きしめた。
数年間の屈辱の鎖から、今、彼を完全に解き放ったのだ。
ペンバーは奴隷を連れて部屋を出て行くリコを見送ると、その小さな後ろ姿が完全に消えるまで静かに視線を追っていた。扉が閉まり、再び一人になった執務室で、彼は珍しく上機嫌でウイスキーを手に取った。
グラスを傾け、琥珀色の液体を見つめる。彼の口元に錆びついたような微かな笑みが浮かんだ。




