58
張り詰めた空気の中、玄関ホールの重厚な扉の向こうから、一人の男がゆっくりと歩みを進めてきた。
口元にたっぷりと髭を蓄えた男が、眉間に皺を寄せて立っていた。
その体躯はガタイも良く上背もある。ただそこに佇んでいるだけで、周囲の空間が歪むかのような強烈な覇気を放っており、仕立ての良い豪奢な上着がその大きな身体をさらに一回り大きく見せていた。
「お、お早いお帰りでしたのね、あなた……」
先ほどまでリコを嘲笑い、その尊厳を踏みにじっていた婦人の顔から、一瞬にして余裕の笑みが消え失せた。女はたじろいでいた。その声音は明らかに上ずっており、夫の突然の帰宅に対してあからさまな動揺と恐怖を隠せない様子だった。
「このように玄関先で、何を騒いでいる」
男の低く冷徹な声が、広いホールの高い天井に反響する。
どうやらこの屋敷の主人のようだ。その男はリコを見て、婦人を見て、また不愉快そうに眉を顰める。
地を這うように跪く質素な身なりのリコと、その前で冷汗を流しながら立ち尽くす妻。その奇妙で醜悪な対峙は、格式を重んじる当主にとって到底許容できるものではなかった。
「いえ、何も……お客さまはもうお帰りよ」
婦人が冷や汗を垂らし、使用人に指示した。
これ以上、夫の機嫌を損ねるわけにはいかない。その言葉に数人の使用人たちがリコを引きずり出そうと両腕を掴んでくる。
屈強な男たちの力任せな手がリコの身体を掴み、大理石の床の上を強引に引きずり始めようとした。
「いや、離して!クリスを売ってくれるまで、ここから動きません!」
リコは必死に床を蹴り、掴まれた腕を振り払おうともがきながら叫んだ。数年間、血の滲むような思いで貯金をし、ようやく掴みかけた希望の糸を、ここで離すわけにはいかない。
半ば引きずられながら叫んだリコに、男がピクリと眉を動かした。何か思い当たることがあるのか、リコを上から下までじっくりと見る。
その男の鋭い眼光がリコを捉えた瞬間、あたかも時が止まったかのような静寂が訪れた。
「やめよ」
男の短く、だが逆らうことの許されない絶対的なひと声ですぐに使用人たちはリコを離した。
突然離されたリコは思わずつんのめって膝をつく。大理石の冷たい感触が再び膝に伝わる中、リコが視線をあげると、厳しい表情の男が視界に映った。
男は、床に倒れ込みながらも強い光を宿したリコの瞳を、品定めするよう見つめ直していた。
「今、クリスと言ったか?」
「いいえ、あなた本当に何でもありませんわ」
婦人が焦ったように遮ろうとする。その顔は恐怖で青ざめ、夫に真実を知られることを極限まで恐れているようだった。しかし、男の冷徹な一瞥が彼女の言葉を完全に叩き潰した。
「私はこの娘に聞いている」
口を挟んだ奥方をひと睨みで黙らせ、男は再びリコに向き直った。その眼光はさらに鋭さを増し、リコの心の奥底を見透かそうとするかのようだ。
「クリスを買い取りたいと言うのか?」
「……はい」
男の放つ圧倒的な威圧感に、全身の細胞が恐怖で震えそうになる。少し怯えながら、だがしかしリコははっきりと答える。ここで怯めば、クリスは永遠にあの婦人の玩具のまま地獄に沈む。その確信だけが、リコの声を支えていた。
「いくらだ?」
「……奥様は、八千万とおっしゃいました。耳を揃えて用意してあります」
リコは懐にある、自らの血と汗と涙の結晶である全財産の証明を強く意識しながら答えた。
男は再び口を引き結んで、リコを見た。
沈黙がホールを支配する。その人を射殺せそうな視線に自然とリコはゴクリと生唾を飲む。男の表情からは一切の感情が読み取れず、その無言の時間そのものがリコにとって鋭い刃のようだった。だが、男の胸中には、この小娘に対する奇妙な興味が湧き起こっていた。
「この娘を執務室へ通せ」
そう言うと、男は踵を返した。
その毅然とした背中を見送りながら、女が焦って声を出す。
「なっ……一体どうなさるおつもりですか!」
自分のコレクションであり、極上の玩具であるクリスが奪われるかもしれないという焦燥が、婦人の理性を揺るがせていた。しかし、主人の男は歩みを止めることなく、冷酷に言い放った。
「玄関先でこのような醜態……ペンバーの名を汚すな」
ペンバー家の当主は奥方を一喝すると、屋敷の奥へ姿を消した。
その圧倒的な拒絶の言葉に、婦人はもはや一言も返すことができず、ただ悔しげに唇を噛むしかなかった。何が起こったのかは分からないが、とりあえずもう一度話は聞てもらえそうだ。リコは少しだけホッとして、使用人に案内されながら執務室へむかった。
使用人の後ろをついて、静まり返った長い廊下を進む。
通された執務室は立派な造りの部屋だった。
重厚な黒檀のマホガニー家具が並び、床には緻密な織りの高級絨毯が敷き詰められている。部屋全体が、歴史と権力を誇示するような重々しい空気に満ちていた。
そして、壁には東方の国で有名な絵画が飾られてある。
それは夕焼けの光が美しく描かれた見事な風景画だった。リコがその絵を見ていると、ガチャリと扉が開き、再び先ほどの男……ペンバー家当主が部屋に入ってきた。
彼は上着を投げ出すと、執務机の椅子にどかっと座ると、口を開いた。
「話は使用人から聞いた。クリスを八千万で買いたいそうだな」
「……はい」
リコは真っ直ぐに男を見つめ返した。男の瞳には、先ほどまでの不快感とは異なる、冷徹な観察の光が宿っていた。
「そのような小娘の身分で、八千万揃えたというのか。見上げたものよ」
当主は羽根ペンを取り出し用紙にサラサラとサインをする。
その手つきには迷いがなく、この理不尽とも言える高額な取引を、まるで日常の退屈な事務処理の一つであるかのように進めていく。
「アイツも男性奴隷などと外聞が悪いものを長々と飼いおって」
ふん、と馬鹿にするように彼は鼻を鳴らしてリコに契約書を差し出した。
それは間違いなく、公的な効力を持つ奴隷売買締結書であった。
「サインをしなさい」
「……!」
リコは大急ぎで用紙とペンを受け取り、署名欄に名前を記入した。
まさかとは思ったが、この主人はクリスを売ってくれるようだ。
確かに自分の妻が男性奴隷を飼っているなど、面白くはないのだろう。格式と名誉を何よりも重んじるこの男にとって、妻の不道徳な道楽は一族の汚点でしかなかったのだ。金を得てその汚点を合法的に屋敷から排除できるのであれば、彼にとってこれほど好都合な話はなかった。
「サインをしました」
「うむ」
リコが契約書を返すと、主人は金額欄を眺めてまた鼻で笑った。
そこに書かれた「八千万」という、一介の平民が一生かかっても手に入れられないはずの巨額の数字。それを前にしても、男の眉一つ動かなかった。
「八千万などと……アイツもふっかけたな。性格の悪い。正にペンバーの面汚しよ」
男の吐き捨てるような言葉には、妻への侮蔑と、冷え切った夫婦関係が隠すことなく表れていた。あまり夫婦仲は良くないのだろうか。
リコは男の表情をそっと盗み見るも、何も分からない。ただ、この冷徹な当主の、妻への嫌悪感こそが自分たちにとって最大の勝機となったことだけは理解できた。
「絵師のリコだったか?」
男がふと、手元の書類から顔を上げてリコを鋭く射すように見つめた。
「はい。そうです」
リコがまっすぐに返事をすると、男は不敵に笑った。その笑みはどこか猛禽類が獲物を前にしたときのような、冷酷で底知れない迫力に満ちていた。
「ふ、吾をペンバーと知って眼前に堂々と立つか。見上げた根性だ」
「……?」
男の言っている意味は分からなかった。吾をペンバーと知って、とはどういうことだろう。この屋敷の主人なのだからペンバー氏であることは当然だ。リコは不思議そうに目を瞬かせるばかりだった。
だが、男の目には、その無知ゆえか、あるいは本性ゆえか、全く恐れを知らずに自分の前に立つリコの姿が、奇妙なほど新鮮に映っていた。悪い印象では無さそうだ。……多分。
主人が呼び鈴を鳴らすと、直ぐに使用人が飛んできた。
扉の向こうから現れた使用人に、彼は使用人に契約書を渡して奴隷を呼んでくるよう言いつける。
「すぐに奴隷が来る。しばらく待て」
「……ありがとうございます!」




