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「どちら様でしょうか。」
すぐに使用人が顔を出した。冷徹で訓練された、貴族の家の使用人独特の訪問者を値踏みするような視線。
「絵師のリコです。奴隷を買いに来たと、奥様にお伝えください」
使用人は不思議そうに眉を顰めたが、すぐに顔を引っ込めた。
一介の平民の絵師が、この大邸宅に奴隷を買いに来たという突飛な用件。不審に思うのも無理はなかったが、しばらくリコが待っていると門戸が開かれ中へと通される。
案内された応接室は、過剰なほどの装飾品で埋め尽くされていた。リコは差し出されたふかふかのソファへ座って待っていると、しばらくたって上品なドレスを着た女性が入ってきた。
きらびやかな宝石を身にまとい、傲慢な笑みを浮かべたその女性。歳のころは四十半ばといったところだろうか。
「まさか、本当に来るなんてね。」
その女性は不敵に笑った。
その薄薄しい笑みを見た瞬間、リコの脳裏に数年前の光景が鮮明に蘇る。
「最後に会ったのはいつかしら?四、五年は前だったと思うけど?」
リコはその女性の目を挑戦的に睨みつけながら言った。
恐怖に怯える段階はとうに過ぎていた。この女こそ、八千万用意しなければ奴隷を売らないとふっかけてきた張本人なのだ。平民には絶対に不可能な金額を突きつけ、リコの希望を打ち砕いて嘲笑った。
「はい。奥様、八千万用意してきました。クリスを私に売ってください」
リコは毅然と言い放ち、懐から大金の詰まった資産証明の書状をテーブルの上に提示した。これだけの金を揃えるために、自分がどれだけの辛苦を舐めてきたか。
「あなた、本当に八千万揃えたのね……?」
婦人の舌がちろりと唇を舐める。リコを面白いものでも見るように眺めた。
想定外の事態に対する驚きと、それ以上に、目の前の平民が本当に大金を目の前に差し出してきたという事実に対する、歪んだ好奇心がその瞳に燃え上がる。
「ふふ、ふふふ……あはは!なんておかしな子なのかしら?私が本当にクリスを売ると思って?」
婦人の口から飛び出したのは、空間を嘲笑うかのような甲高い笑い声だった。
「……え?」
リコの思考が、一瞬で真っ白に染まる。全身の血が凍りつくかのような感覚。
「売り払うわけないじゃない。私はクリスをとおーっても気に入っているのよ?八千万と言ったのはあなたに諦めさせるために言ったのよ。まさか本当に耳を揃えて持って来るとは思わなかったわ」
婦人はまたおかしげにくすくすと笑う。
その言葉は、リコが過ごしてきた血の滲むような数年間を、そのために積み重ねてきた努力のすべてを、根底からあざ笑い、踏みにじるようだった。
リコは絶望にも怒りにも似た感情に支配された。
視界が怒りで赤く染まり、同時に足元が崩れ落ちるような激しい眩暈がリコを襲う。
「そんな!奥様は確かにあの時に、八千万用意すればクリスを売ってくれると言いました!」
半ば叫びに近い声で訴えるリコを婦人は楽しそうに見ながら席を立つ。
約束、契約、倫理——そんなものが、この傲慢な貴族の婦人に通用するはずもなかった。彼女にとって、平民との口約束など、破っても心が痛まない児戯に過ぎないのだ。
「うふふ、おかしな子。クリスは売らないわ。手土産を持たせてあげるから、それで帰りなさい」
一顧だにしない冷酷な言葉。ガチャリ、と客間の扉を開いてその女は出てゆく。
クリスが、再び自分の手の届かない暗闇へと連れ去られてしまう。リコは慌てて追いかけた。
客間を出てすぐの玄関ホールでリコは婦人の前に回り込み、大理石の床へと激しく膝を打ち付けた。跪いて懇願する。
「お願いです。私の八千万でどうぞ好きな物を買い揃えてください!どうか、どうかクリスだけは……!」
プライドなど、とうの昔に捨てていた。床に膝を擦り付け、涙を流しながら、リコはただただ縋るしかなかった。
その婦人は呆れたようにリコを見下ろした。
這いつくばるリコの姿は、彼女にとって優越感を満たすための極上のエンターテインメントでしかない。
「馬鹿ね、あなたはあの子がどれほど素晴らしいか知っているの?何年も何年も私のために磨き上げたものよ?そう簡単に手放すと思う?」
婦人の口から語られるその言葉が、リコの心を引き裂いていく。さらに上から下までリコを見て彼女は続ける。
「それに……あなたのような薄汚れた女が男性奴隷を買ってどうするというの。ろくに着飾らせてもあげられないでしょうに」
婦人は自分で言ってまたクスクスと笑った。
その下品で残酷な笑い声が、広い玄関ホールに虚しく響き渡る。
周囲に控える使用人たちの視線が痛いほどに突き刺さる。
哀れみ、蔑み、無関心――様々な視線がリコの身体を突き刺したが、今のリコにはそれを気にする余裕すらなかった。何を言っても踏み倒すつもりなのだろう。リコとて簡単に引き下がるつもりはないが、かといってこれ以上どうすれば良いのか策もない。
正当な対価を支払い、合法的に彼を救い出すという唯一の道が、今、完全に閉ざされたのだ。
婦人の仕打ちに、リコは絶望した。
涙で視界が滲む中、大理石の床の冷たさだけが、冷酷な現実としてリコの身体を支配していた。
「何事だ」
リコが跪いて婦人に懇願していると、不機嫌そうな男の声が玄関ホールに響き渡った。
大理石の床にへばりつかんばかりにして涙を流すリコと、それを冷酷に見下ろしていた婦人。二人の間に割り込むようにして響いたその一言は、まるですべての空気を凍りつかせるかのような圧倒的な威圧感を孕んでいた。
広い玄関ホールにいる使用人たちが一様に頭を下げて一斉に控える。その動きは一分の乱れもなく、長年この屋敷を支配する絶対的な権力者への恐怖と敬意が骨の髄まで染み込んでいることを物語っていた。
「「おかえりなさいませ、ご主人様。」」




