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長く過酷だった北方要塞デンバー領からの旅路も、ようやく終わりを告げようとしていた。
道中の旅程は順調に進み、予定通り二週間で二人は王都についた。
リコがかつて拠点として使っていた慎ましくも愛着のあった賃貸アパートは、既にユーゲン兵長らが手を回し、解約されてしまっているという。暗殺の危機からリコの身を守るための措置であったとはいえ、帰るべき家を失った衝撃は小さくなかった。幸いにも、部屋に残されていた画材などの少ない荷物は保管してくれているというので、命の恩人たちに感謝しつつも、リコはまずは部屋探しをすることになった。
王都の辻馬車が行き交う賑やかな大通りの一角で、ここまで行動を共にしてくれたジルが、心配そうにリコを見つめている。
「一人で大丈夫ですか?」
責任感からか、家無しの身となったリコをこのまま放り出すことに躊躇いを感じているのだろう。その実直な気遣いに対して、リコは努めて明るく頼もしい笑みを返した。
「ええ、伝手があるのでそちらを頼ってみようと思います。ジルさんは早く城へ行ってあげてください」
新王即位に沸く王宮内は、今まさに人手を欲しているはずだ。これ以上、自分の私事に彼を付き合わせるわけにはいかない。しかし、ジルはなおも足を止めて、眉をひそめた。
「ですが、今晩泊まるところはどうするんです?」
「ジルさん、ここは王都ですよ。宿くらいどこか空いてます」
リコは苦笑しながら、大都会の利便性を説いた。場数を踏んできた彼女にとって、一晩や二晩の宿を確保することなど造作もないことだった。リコの頑なな態度に、ジルもようやく肩の力を抜いて、諦めたように微笑んだ。
「そう、ですか。なら泊まる場所が決まったら連絡をください。城門の受付で伝言を残してくだされば結構ですから」
「わかりました」
二人はしっかりと頷き合い、旅の終わりとこれからの日常への復帰を確認し合う。すると、ジルは何かに気づいたように自身の旅用鞄へと手を伸ばした。
「それから、このメガネはお返ししておきますね」
「あ!私のメガネ!」
ジルは鞄からそっとメガネを取り出し、リコに手渡した。
デンバー領への道中、素性を隠すためにずっと外していた、リコにとっての身体の一部とも言える愛用品だ。リコはすぐにメガネを装着する。
鼻梁に馴染むいつものフレームの感覚と、レンズ越しに広がるクリアな視界に、リコは心の底から安堵の息を漏らした。
「良かった!眼鏡がないと何だか慣れなくて」
目元をパチパチとさせながら、いつもの調子で愚痴をこぼすリコを見て、ジルの目元が優しく緩む。
「なんだかいつものあなたにようやく出会ったような気がしますよ。では、失礼しますね」
ジルはそう言うと名残惜しそうにリコと別れた。
彼の背中が王宮へと続く大通りの人混みに消えていくのを、リコは静かに見送った。
ジルを見送り、リコは城から東にある区画に向かう。
そこは王都の中でも古くから栄える下町の職人街であり、リコにとっては第二の故郷とも呼べる場所だ。大通りを逸れて裏道を進み、暗い細い道をしばらく行くと、その建物はあった。
時間の流れに取り残されたかのような、古いその建物は建て付けも悪く、扉を開くと酷く軋む。
ギー、と夜の静寂を切り裂くような低い音が、その軋む音がすっかりと呼び鈴代わりになっており、リコが扉を開くとすぐに奥から一人のお爺さんが顔を出した。
白髪が生えて腰の曲がったその男性は、長年のインクと溶剤が染み付いた薄汚れたエプロンをしている。ひょこひょこと歩いてリコを見た途端、その男性は目を三角に吊り上げた。
「リコちゃんじゃないか!こらあっ!今までどこへ行っておったんじゃ!連絡もなく突然消えおって……皆も心配しておるぞ!!」
建物全体が震えんばかりの怒声だったが、その裏に隠された老人の深い愛情と心配の念を、リコは痛いほどに感じ取っていた。リコはえへへと笑って謝る。
この男こそ泣く子も黙る版画師である。リコの絵を丁寧に版画におこしてくれる、できる男なのだ。彼の精密な職人技がなければ、リコの絵がこれほど王都で広く流通することはなかっただろう。
「ごめんなさい、急遽事情があってデンバー領の方へ行っていたんです。」
あまり詳しい政治的裏事情を話すわけにはいかず、リコは言葉を濁しながら頭を下げた。老人はフンと鼻を鳴らしてエプロンで手を拭いたが、その表情からは明らかに安堵の影が見て取れた。
「もう戻ってきたから大丈夫です!また新作ができたら持ってきてもいいですか?」
「当たり前じゃ。お前さんの絵はよく売れるからの」
素っ気ない口調ながらも、創作活動への復帰を全面的に歓迎してくれている
。
「ありがとうございます!それと……リードさんはいますか?」
リコが尋ねると、奥からひょっこりとその男が顔を出した。恐らく中で聞いていたのだろう。
エプロンをつけた若い男が、人懐っこい笑みを浮かべて現れた。
「いるよ。久しぶりだね、リコちゃん」
「リードさん!」
リコは満面の笑みで彼に駆け寄った。
彼は版画師をしているが、実は地主の息子である。以前住んでいた家も彼の伝手で貸してもらっていたものだった。家を失い、新しい生活拠点を探すリコは、今回も助けてもらえないかと頼りに来たのである。
「実は、また……」
「新しい家探しかい?」
リコが言い切る前に、リードは朗らかに笑って遮った。
長年の付き合いゆえか、リコの表情を見ただけで、彼女が何を求めているのかを瞬時に察したようだ。
「いいよ、親父にいい物件がないか聞いてみる。何か希望はあるかい?」
その快い返答に、リコの胸は一気に弾んだ。
「あまり高くない家で、二人で住めるような間取りがいいです。アトリエにできるような部屋も欲しいなあ」
「また君はそんな無茶を言う。」
またリードは朗らかに笑った。
限られた予算の中で、居住スペースとアトリエを両立させる物件など、普通であれば至難の業だ。しかし、リードの笑顔には、職人街の仲間としての確かな頼もしさがあった。
「よしよし、いいよ。親父に聞いといてあげるから、明日同じ時間にまた顔を見せにおいで?」
「ありがとう!」
リコは飛び跳ねて喜ぶ。そんな様子をリードは微笑ましそうに見ていたが、ふと気づいて彼は訊ねた。
「リコちゃん、二人暮らしってことは……」
グッチの探るような視線に対し、リコは少しの悪戯心を込めて、人差し指を立てた。
「うふふ、ナイショですー!」
ご機嫌な様子で唇に人差し指をあてるリコを見て、また彼は目を細める。
リコはそのまま彼らに別れを告げると、そのまま次は城の南側の区画へ向かった。
先ほどの騒がしくも温かい下町とは打って変わり、ここは大小様々な屋敷が立ち並ぶ高級住宅街だ。高くそびえる石壁、美しく整えられた街路樹、そして排他的な静寂が辺りを支配している。
リコは一際大きい門構えの家の前に立つと、深呼吸をして豪華なノッカーでノックをした。
重厚な金属音が静かな住宅街に響き渡る。心臓の鼓動が早くなるのを抑えながら、リコは背筋を伸ばした。




