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 その声は、冷徹で、極めて低く、周囲の空気を一瞬にして凍りつかせるような凄みを持っていた。聞き慣れた、よく知った声。

 驚いて振り返ると、灰色の瞳がリコを見下ろしている。

 路地の闇から現れたのはジルだった。しかし、普段の整然とした彼とは、明らかに雰囲気が異なっている。


「ジルさん!?」


 ジルは少し酔っているのか、まどろんだ瞳で乱れた髪をかき上げた。

 いつものぴっちり着込んだ軍服の着こなしも、今日ばかりは少し襟元が緩んでおり、その切れ長の瞳には薄い酒精の膜が張っているようだった。しかし、その奥にある灰色に澄んだ瞳は、怒りで鋭く燃え上がっている。


「あなたはまた変な男を引っ掛けているのですか。どうしてそう危機感がないんです?」


 ジルの言葉には、リコに対する呆れと、それを上回る激しい焦燥感が混ざり合っていた。


「ああ!?なんだよ!」


 変な男と呼ばれた男はいきりたつ。

 せっかく手に入りそうだった獲物を邪魔され、さらに見下すような態度を取られたのだ。


「あなたも、いい加減その手を離してください」


 ガシリとジルが男の腕を掴んだ。

 ジルの動きは電光石火だった。男が反応するよりも早く、リコの腰に回されていた男の手首を掴み、冷酷な力で引き剥がす。その乱暴な行動に男が目を剥いて怒った。男は拳を握りしめジルに殴りかかる。リコは驚いて後ろへ飛び退いた。


 乱闘騒ぎが始まった。

 虫の居所が悪いのか、珍しくジルが怒って男を相手にしている。普段の彼であれば、即座に憲兵に引き渡すか、あるいは一瞥の元に威圧して終わらせるはずだった。しかし今日の彼は、自ら手を下して男を叩きのめそうとしていた。

 酔っ払っているが、男の腕を軽々と避け、柳のように受け流して男の足を引っ掛ける。

 それは軍で鍛えられた軍事のそれであった。アルコールが入っているとは思えないほど、その軸は一切ブレず、相手の粗暴な拳を最小限の動きで回避していく。バランスを崩した男はコロリと地面に転がり、更に怒り狂って飛び掛かってきた。


「この野郎……!」


 周りの男達はやいやいと囃し立てるだけで、止めようとする様子がない。

 悪趣味な観客と化した男たちの声が響く中、ジルは冷静そのものだ。男が我を忘れて大振りの拳を突き出してきた瞬間、ジルは二打目も軽々と避けると男の腹に向かって鋭い回し蹴りを喰らわせた。

 無駄のない、美しくも破壊的な一撃が、男の胴体を正確に捉える。


「か、はぁっ!!!」


 鳩尾に入ったのか、一瞬、男の息が詰まる。

 男は白目を剥きかけ、その場に膝から崩れ落ちた。地面に両手をつき、激しく咳き込みながら酸素を求めて喘いでいる。


「悪いですが、この子はもらっていきますよ」


 男が腹を抱えて地面に伏せたのを見て、ジルはリコを連れて引っ張った。

 ジルの大きな手がリコの手首をしっかりと掴み、有無を言わさぬ力で歩き出す。なす術なくリコは大人しくついて行く。どうやらジルは怒っているようだった。

 その背中から立ち上る無言の圧力は、先ほどの酔っ払いなど比較にならないほど恐ろしかった。


「どういうことですか。私との約束をすっぽかして、てっきりあなたはブラッド王子とお楽しみ中だと思っていたのですが。一人で、護衛も連れず、説明してくれますかね?」


 矢継ぎ早にそう言ってはジルはずんずんと進んで行く。

 彼の歩調は速く、リコは小走りでついていかなければ振り落とされそうだった。ジルの声には、リコが裏切ったことへの怒りと、それ以上に、彼女が危険な目に遭っていたことへの激しい憤りが混ざり合っていた。


 第二の郭の門を通り、広い軍備施設へ出た。

 一般の人間が立ち入ることのできない、堅牢な石壁に囲まれた訓練場。


「あの、あの、私」


 街の喧騒が遠くなって行く。

 遠くから響く楽団の音や人々の笑い声が、まるで別世界の出来事のように静まり返っていく。このまま黙っていては、ジルの誤解は深まるばかりだ。何か言わなければとリコは焦った。

 リコは精一杯の声を絞り出す。


「……王子から逃げ出してきたんです」


「……逃げ出した?」


 ジルが止まって振り返る。

 その表情には、明らかな驚きが浮かんでいた。王族であるブラッド王子の誘いを断り、さらにその場から逃走するなど、普通の人間には到底不可能な暴挙だからだ。


「約束を破ってしまってごめんなさい」


 リコは俯いた。

 言葉にすると罪悪感が、一気に押し寄せてくる。本当はリコだって楽しみにしていたのだ。

 彼と過ごすはずだった月詠祭の夜。それを台無しにされた悔しさと、申し訳なさで胸がいっぱいになる。視線を下げると、ジルの買ってくれた靴が目に入る。

 月光に照らされたその靴は、リコの足元で静かに輝いていた。どうやら、ジルもそれを見たようだった。

 ジルの視線がリコの足元に注がれ、彼の張り詰めていた肩の力が、ほんの少しだけ抜けたように見えた。


「靴を、履いてきてくれたんですね」


 ジルがポツリとそう言った。

 その声音は、先ほどまでの刺々しさが消えている。


「大切な、靴ですから」


 リコがまっすぐに彼を見上げてそう言うと、ジルはそっとリコの手を握った。

 

「……本当は、たくさん準備していたんです」


 ジルが決まり悪そうに言う。

 彼は視線を斜め下に落とし、少し頬を染めながら、自らの胸の内を吐露し始めた。普段のジルからは想像もつかないほど、素直で、不器用な告白だった。


「あなたと出店を回って、サーカスを見て、夜店で遊んで……それを全部ブラッド王子としているのかと思うと、腹が立ちました」


 彼がどれほど自分との時間を心待ちにしていたか、その一言に凝縮されている

 ジルはそっと一枚の手紙を取り出した。

 上質な紙で作られた、四隅に美しい装飾が施された手紙。


「開けてください」


 ゴールドの縁取りがされたそれを、そっとリコは開く。

 ジルの端正な文字で、そこには美しい詩が記されていた。


——心にもあらでうき世にながらへば 恋しかるべき夜半の月かな——


「これって……」


 リコはジルを見上げた。

 

「今夜は月詠祭です。あなたにそれを、贈りたかった」


 リコはギュッと手紙を握りしめる。

 胸の奥から、温かい感情が溢れ出して止まらなくなった。リコも準備をしていたのだ。

 彼にどんな詩を贈れば喜んでもらえるか、何日も前から悩み抜き、スケッチブックに向かい、たくさん悩んで、ヒナにも相談して詩を選んだ。

 自分だけが楽しみにしていたわけではなかった。ジルもまた、自分と同じように悩み、自分を想いながらこの詩を選んでくれたのだ。そう思うと、嬉しさが込み上げてくる。

 リコは深く息を吸い、心の準備をしてから、ずっと温めていた言葉を口にした。


「幾世へて後か忘れん 散りぬべき野辺の秋萩みがく月夜を」


 そっとリコは誦じた。

 静かな軍備施設に、リコの鈴を転がすような声が響く。驚いたようにジルが目を見開いている。


「それは……」


「私からジルさんへ贈る詩です。本当は手紙に書いたんですけど……部屋に置いてきてしまって」


 リコは、はにかむように笑った。

 王子の乱入によって手紙を渡すタイミングを失い、部屋の机の上に残してきたことが悔やまれるが、こうして自分の口から直接伝えられたことが、何よりも嬉しかった。

 ジルが驚いたようにリコを見た後、キュッと口角を結ぶ。ジルの低い囁き声が聞こえた。


「あなたにとっての不幸は、今、護衛がいないことですね」

 

 周囲には誰もいない。リコの髪にジルの長い指が差し込まれる。

 ジルはあっという間にリコの腰を抱き寄せ、その唇を奪った。





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