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 突然のことに、リコは足をもつれさせながらも、引っ張られるようにして走り出す。大勢の人たちが行き交う道を掻き分け掻き分けしながら走る。

 周囲の光が線となって後ろへと流れていく。すれ違う人々の驚いた顔、笑い声、音楽の音が、すべて万華鏡のようにぐるぐると回りだす。


「ちょ、まっ……どこに行くんです、か!」


 はあはあと息を切らせながらリコが言うと、王子は笑いながら答える。

 その笑顔は、まるでいたずらを成功させた少年そのものだった。


「はは、護衛を撒くんだ。あいつらがいたんじゃ君と何にもできやしない」


「じゅう、ぶん、しました!」


 リコは慌てて振り向いた。

 王子の狙いがようやく分かった。彼は、背後についてきていたアンジたちを意図的に引き離そうとしていたのだ。人混みの向こう、アンジの焦った姿が遠く豆粒になり人混みに消えてゆく。

 いくらアンジが大柄で力強くとも、この狂乱のような人混みの中で、俊敏に動く王子を追うのは不可能に近かった。

 この困った王子はまだ遊び足りないようだ。とうとうリコは堪忍袋の尾が切れた。

 護衛がいなくなるということは、この危険な王子と二人きりになるということだ。これ以上彼のペースに巻き込まれては、自分の身がいくつあっても足りない。そんな理由で護衛と引き剥がされてはたまったもんじゃない。


「えいっ!!」


 リコは思いっきり力を入れて王子の手を振り払った。

 走っている勢いを利用し、身体を捻るようにして手首を引き抜く。スルリ、とリコの手とブラッド王子の手が離れる。

 一瞬、驚いたような彼の顔が見えた。まさか、一介の使用人に自分の手を拒絶されるとは思っていなかったのだろう。そのアメジストの瞳が驚愕に見開かれる。


「ちゃんと帰ってくださいね−!」


 リコは叫ぶとクルリと踵を返して人混みの中へ駆け出した。

 今度はリコが自らの意志で走る番だった。王子の長い足が追ってくる前に、この人間の海の中に隠れなければならない。


「おい!まて!」


 後ろから焦ったような王子の声が聞こえるが、直ぐに喧騒にかき消されてゆく。

 人々の肩をすり抜け、ランタンの光の影へと飛び込む。リコはそのまま夜の街へと姿を消した。胸の鼓動は激しく脈打っていたが、王子から逃げ切ったという確信のなかで、リコは月詠祭の雑踏へと深く深く溶け込んでいく。


 しばらく雑踏の中を闇雲に走り抜け、いい加減息が苦しくなってリコはようやく走ることを止めた。


「アンジさんはどこかしら」


 リコは街の喧騒の中、トボトボと歩いていた。

 先ほど月詠祭の狂乱とも言える人混みの中で、ブラッド王子の強引な手を振り払い、全速力で逃げ出してきたまでは良かった。しかし、勢いに任せて飛び込んだ大通りの裏手は、予想以上に複雑に入り組んだ迷宮のようになっていた。

 周囲を見渡せば、きらびやかなランタンの光は遠く、大通りの喧騒が嘘のように薄暗い影が地面を這っている。威勢のいい店の呼び声が響くが、もう王子の財布はない。

 お腹は少し満たされていたものの、急に一人きりになった寂しさと心細さが、秋の夜風と共に身に染みてくる。

 本当なら、今頃はジルさんとお祭りを楽しんでいたはずなのに……。

 リコは何だか悲しくなって俯いた。


 もしブラッド王子の「仕込み捻挫」に引っかからなければ、今頃は彼と並んでこの美しい月詠祭の夜を満喫していたに違いない。そう思うと、後悔が胸に押し寄せてきた。

 アンジは見つからない。きっと慌てて探してくれている事だろう。

 あの忠実で大柄な護衛の姿を人混みの中に見失ってしまったことも、リコの不安を加速させた。彼が今頃、王子の安全を確保しつつ、消えた自分を必死に捜索しているだろうことは容易に想像がついた。


「とりあえず、将軍府に帰ろうかしら」


 リコは黒城に向かって歩き始めた。

 道はわからないが、将軍府は黒々と高く聳え立っていて、街のどこからでも見えるので大体の方向はわかるのだ。

 デンバー領の象徴である巨大な要塞は、月光を浴びて不気味なほどに毅然と佇んでいた。あの巨大な漆黒の影を目指して歩けば、いずれは城門に辿り着けるはず。リコは自分の感覚だけを頼りに、薄暗い路地を進むことにした。

 適当に王府の方向へと進んでいく道を選んで歩いていると、いつの間にか裏通りに出ていた。お祭りの喧騒が小さく聞こえてくる。

 そこは、石畳がひび割れ、壁には古びた蔦が絡まる寂れた一角だった。大通りの華やかさから完全に切り離されたその場所には、特有の澱んだ空気が流れている。飲み屋の前に、何人かの男がたむろしている。

 安酒の匂いを漂わせ、だらしなく衣服を崩した男たちが、数人集まって笑い声を上げていた。リコは身の危険を感じ、視線を落として足早に通り過ぎようとした。しかし、運悪くそのうちの一人と目が合ってしまう。


「こんばんは。あれえ?ひとり?」


 酔っ払っているのだろうか。そのうちの男が一人、声をかけてきた。

 男は赤ら顔で、ふらつく足取りでリコの行く手を塞ぐように前に立ちふさがった。


「危ないよ?送ってあげようか?」


「いえ、あの、結構です。」


 リコは引きつった笑みを浮かべながら、男を避けて横を通り抜けようとした。しかし、男はしつこく距離を詰めてくる。


「ねえ、俺一目惚れしちゃったみたいだ。一緒に飲みに行かない?」


「あ、あの、本当に結構ですから……」


「そう言わないで?」


 男の腕がリコの腰に巻き付いてくる。

 アルコール特有の熱い体温と不快な匂いが、リコの身体を包み込んだ。リコは身を硬くし、必死に男の腕を離そうともがく。


「おーい、嫌がってるぞ?」


 他の男達が助けるでもなく、ケラケラとこっちを向いて笑っていた。

 彼らにとって、この状況はただの退屈しのぎの余興に過ぎないのだ。誰もこの見知らぬ少女を助けようなどとは露ほども思っていなかった。


「ダメ、絶対俺の彼女にする。ねえ、行こうよ」


 リコは酒の匂いのする男を見上げた。うっすらと赤みを帯びた頬にまどろんだような瞳は、これはこれで色気がある。

 危機的な状況であるはずなのに、リコの脳裏にふと、職業病とも言える奇妙な思考が過った。この退廃的で、どこか崩れた美しさは、絵描きとしてのインスピレーションを大いに刺激するものだった。

 つい、いつものくせでリコの頭の中にチャリンチャリンとお金の音が鳴り響く。


(この男、少し整えれば立派な宗教画の堕天使か、あるいは放蕩息子のモデルになるんじゃないかしら……?)


「うーん……お兄さん、モデルに興味ありませんか?」


「モデル?」


 男は突飛なリコの提案に、一瞬だけ動きを止めて目を丸くした。


「つまり、」


 リコが話そうとし始めた時だった。


「あなたのモデルはこの私でしょう」


 後ろから声が聞こえた。地の底を這うような声だ。




もちろん、ジルくんだよ

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