51
リコが青ざめた顔で覗き込むと、王子は確かめるように右手首を触っている。
「ああ、手首を捻挫してしまったようだ。ああ、痛いなあ」
「ど、どうしよう……!すぐにお医者様に……!」
リコが慌てていると、遮るように王子が手をあげる。なぜか彼は満面の笑みだ。
その表情には、痛みに苦しむ者の気配など微塵もなかった。まるで、仕掛けた罠に獲物が綺麗に引っかかったことを喜ぶような、屈託のない笑顔。
「それには及ばん」
王子のその言葉と同時に、廊下の影から直ぐにお付きのものが飛んできて、王子の腕にグルグルと包帯を巻いた。
その動きはあまりにも迅速で、まるで最初から準備されていたかのようだ。お付きの者は無言で手際よく、王子の手首から前腕にかけて真っ白な包帯を何重にも巻きつけていく。リコはその光景を呆然と見つめた。
(あら、捻挫ってこんなに厳重に包帯を巻き付けるものかしら?)
どう見ても骨折かそれ以上の大怪我に対する処置にしか見えない。不審に思ったリコは、思わず口を挟んだ。
「あの、先に冷やした方が……」
「ああ痛い!!」
リコの言葉を遮るように王子が声を出す。
彼はリコの的確な指摘を強引にかき消すように、大袈裟に顔をしかめてみせた。しかし、その瞳の奥には明らかな楽しげな光が宿っている。
「困ったなあ、今日の月詠祭に行こうと思っていたのに、こんな腕では一人では行けまい」
残念そうに王子は頭を振った。
芝居がかった溜息をつき、包帯で厳重に固められた右腕をリコに見せつけるようにしてアピールする。
「さて、どうしようか。ああ、良い考えがある!」
ポン、と左手で手を叩き、名案を思いついたとばかりにブラッド王子は目を輝かせた。
何となく嫌な予感がする。この流れは、絶対に自分にとって良くない方向へ進んでいる。
「アリナ、君に一緒に来てもらって手助けしてもらおうか!」
「えっ……?」
あまりにも唐突で、そしてあまりにも強引な要求に、リコは思考が停止した。
手助けとは、つまり自分をお祭りの同行者に指名するということだ。なぜ王族である彼が、絵の具と埃にまみれた一介の使用人である自分を連れて行こうとするのか。
だが、王子のあの自信に満ちた態度を見た瞬間、リコはすべてを理解した。まんまといっぱい食わされた。満面の笑みのブラッド王子にリコは確信した。どんな手を回したのかは知らないが、客室棟長にいっぱい食わされたようだ。
あの客室棟長が急に「一階の外廊下へ行け」と指示してきたのは、この男にリコを引き合わせるための策略だったのだ。
「まさか、断るなんて言わないよな?」
「いえ、その、私はまだ仕事が、」
リコは必死に言い訳を探し、後ずさりしようとした。客室棟の清掃が残っていると言えば、大義名分が立つはずだった。わざとだ。この男、絶対にわざとぶつかって来たに違いない。
「気にするな。客室棟長に話は通してある。もう仕事は上がって良いと言っていたぞ」
「…………」
完全に退路は断たれていた。客室棟長め。心の中で、口にするにもおぞましい言葉でリコは客室棟長を呪う。
お祭りの減税で浮かれていたあの棟長の顔が脳裏に浮かび、リコは理不尽さを覚えた。完全に王子に買収されたか、あるいは権力に屈したのだろう。
「断るなら、この御身を傷つけた罪で死罪だな」
ブラッド王子は、至極当然のことのようにさらりと言い放った。
リコは恨めしそうに睨みながら白旗をあげた。実際、この男にはその権限があるに違いないのだ。
王族の身体に傷をつけたとなれば、それが事故であろうとも極刑に処される可能性がある。この理不尽な脅しに、リコはそれ以上抗う術を持たなかった。
諦めた様子のリコを見て、王子は満面の笑みで馬車にリコを乗せた。
用意されていたのは、王室の紋章が刻まれた豪奢な馬車だった。リコのような庶民が乗るにはあまりにも不釣り合いな空間だったが、拒否権はない。しかし、馬車の外を確認したリコは、少しだけ安堵した。しっかりとアンジの馬まで用意されている。
「安心しろ。護衛もついている。二人分だ」
リコがそっと馬車のカーテンの隙間から覗くと、アンジとブラッド王子の護衛が馬に乗り、後ろからついて来ていた。
あの頼れる大男が後ろに控えているだけで、少しだけ心の平穏が保たれる。だが、それでも目の前に座る腹黒い王子の存在は歓迎できない。リコには、今日、別の約束があったのだ。
「先約がありましたのに」
リコが恨めしげにつぶやくと、王子は眉間に皺を寄せる。
「断れ。先約は私だった。それだけのことだ」
ブラッド王子はリコの心中を察したのか、不機嫌そうに言い捨てた。そして、馬車のの小さな引き出しからメモ用紙とペンを取り出すと、それをリコに押し付けた。
無言の圧力に押され、しぶしぶリコはジルに宛ててメモを書く。
『急な用事が入ってしまって、今日はお祭りに行けなくなりました。ごめんなさい。』というような、無難な言い訳を殴り書きにするしかなかった。
王子はそれを取り上げるとあっという間に御者に渡し、何食わぬ顔をしてまた座った。
御者がそのメモをジルの元へと届けるのだろう。これでジルがどれほど怒るか、あるいは呆れるかを想像すると、リコは胃が痛くなる思いだった。だが、馬車は無情にも要塞の門をくぐり、賑やかな城下町へと進んでいく。
「さて、どうしようか。私は月詠祭は初めてなんだ。案内してくれないか」
ブラッド王子は、包帯の巻かれた右腕を大袈裟に庇うような仕草をしながら、窓の外の賑わいに目を向けた。
「私も初めてです。殿下のお力になれる事はないかと」
ツン、と済ましてリコが言うが、王子は怒ることもなく楽しそうに笑っている。
リコの冷ややかな態度すら、彼にとっては新鮮で面白いエンターテインメントのようだった。
「かまわん、ならば共に楽しもう」
リコは王子に手を引かれ、馬車を降りた。あたりの光景に思わず感嘆の声が漏れる。
「うわあ……!」
馬車の外は、光と音の洪水だった。
街の広場では美しい舞が披露され、楽団が楽しげに楽器を奏でている。色とりどりの衣装を纏った踊り手たちが、月を讃えるステップを踏み、太鼓の軽快なリズムが人々の心を躍らせていた。道のあちこちで市が開かれ、客を呼び込む声があちこちから聞こえて来くる。
「いらっしゃいいらっしゃい!本日ドレスを注文された方は30%オフだよー!」
「いらっしゃい!今王都で流行りのマトリーツェだよ!おいしいよ!」
「ああ!マトリーツェだ!」
思わずリコは声を上げた。
その看板を見た瞬間、リコの目が輝いた。マトリーツェはパンにたっぷりのクリームとイチゴが挟まっているスイーツだ。王都にいた頃に食べてみたかったが流行りのスイーツである。
甘い香りが鼻腔をくすぐり、仕事でお腹が空いていたリコの胃袋が主張を始める。
「食べてみるか。買ってきてくれ」
王子がポン、と財布をリコに渡す。
受け取った財布は、ずっしりとした重みがあり、中には金貨がぎっしりと詰まっていた。これだけの資産があれば、その辺の出店を買い占めることもできるだろう。
(ええい、こうなったらコイツの金で存分に楽しんでやろう!)
リコの中で、小さな反逆の炎が燃え上がった。無理やり連れ出された腹いせに、この傲慢な王子の財布を空にしてやる勢いで散財してやろうと決意したのだ。リコは財布を持って気ままに出店をまわることにした。
焼きたてのマトリーツェを口いっぱいに頬張りながら、次から次へと露店を冷やかしていく。
フリーマーケットを覗くと、見慣れたいつもの図画員達が絵を売っていた。ハンクさんもいる。
彼らは即席の木枠に自分たちの自信作を並べ、お祭りの客にアピールしていたが、やはり芸術品を買い求める者は少ないらしく、皆一様に暇そうに頬杖をついていた。
「みなさん!こんなところで売っていたんですね!」
「やあ、アリナちゃんじゃないかい!楽しんでいるか?絵の方はサッパリ売れないんだがねー!」
ハンクが自嘲気味に笑いながら、頭を掻いた。
リコは駆け寄って図画員達の絵を見た。どれも個性的で、素晴らしい熱量が込められた作品ばかりだ。ブラッド王子も近寄って覗き込んでいる。
少し凹んでいる彼らにリコはドン、と胸を張った。彼らの才能が認められないのが悔しかったし、何より、今の手元には無限とも思える王子の資金がある。
「わはは!大丈夫ですよ!私今日はお金持ちなんですー!ぜーんぶ買っちゃう!」
「お、おい!」
ブラッド王子が隣で焦ったように声を出しているが、無視だ、無視。
彼はまさか、自分の財布がこのような形で、無名の街絵師たちの作品に注ぎ込まれるとは思っていなかったのだろう。眉をひそめる王子を完全に無視して、リコは金貨を次々と図画員たちの手に握らせていった。
「本当かい!?ホラ、気が変わらないうちに早く早く!ヒャッホー絵が売れた!今夜は飲むぞー!!」
ハンクをはじめとする図画員たちは、目の前に積まれた金貨の山を見て狂喜乱舞した。お互いに肩を組み合い、信じられないといった様子でお祭りの夜へ備えて繰り出していく。
リコは小さな物から大きな絵まで全て買い込むと、満足して頷いた。どうせ馬車できているのでたくさん荷物があったところで困らない。
大量の絵画は、後ろに控えていた王子の護衛が両手いっぱいに抱えることになった。その様子を見て、リコは胸がすくような思いだった。
そこからのリコとブラッド王子の道中は、奇妙なほどに噛み合っていた。リコが興味を示すものに、王子は子供のように目を輝かせてついてきた。
「おい、あれは何だ」
「綱渡りをやっているみたいですね!見に行きますか?」
「もちろんだ」
大道芸人の見事な技に、二人は並んで歓声をあげる。
「おい、あれは何だ」
「あれは、ターキーレッグですね!食べますか?」
「もちろんだ」
大きな肉にかぶりつく王子という、およそ宮廷では見られないような光景を目の当たりにしながら、リコも一緒になって肉を頬張る。
「おい、あれは何だ」
「射的ですね!やってみますか?」
「もちろんだ」
包帯を巻いているはずの右手で、王子は見事なさばきを見せ、景品を次々と撃ち落としていく。
(やっぱり、捻挫なんて大嘘じゃない)
リコはこっそり唇を尖らせる。
あっという間にすっかり日が暮れた。
辺りは夕焼けに包まれ、しっとりと大人の時間に変わってきている。
街を照らす灯火の数も増えていった。広場では月詠大会が開かれ始めた。美しい月の詩が詠み手の良く通る声に乗って届いてくる。
情緒溢れる調べが街を満たし、昼間の賑やかさとは異なる、どこか幻想的でロマンチックな雰囲気が漂い始める。仕事終わりの大人達が増え、辺りは一層ごった返し始めた。
人々の距離が近くなり、押しつぶされそうになりながら歩く中、リコはそろそろこの不本意なお祭り巡りを終わらせるべきだと考えた。
「ブラッド王子、そろそろ帰りますか?」
「何を言っている。これからが本番だろう」
王子は帰る気など毛頭ないようだ。
街には至る所に灯りが灯され、夜の街を浮き上がらせている。闇の中に浮かび上がる無数のランタンの光が、王子の瞳をアメジスト色に怪しく輝かせていた。ブラッド王子はリコの手を引いた。
「月詠祭は、月の詩を贈るらしいな」
「ええ、私もそう聞いています」
リコは、このお祭りの伝統について思い返した。大切な人に、月をモチーフにした詩を詠んで贈る。
ブラッド王子は月のない煌々と輝く夜空を見上げた。揺れるランタンの光が、彼の美しい横顔を白く照らし出す。
「月読の光に来ませあしひきの山きへなりて遠からなくに」
「えっ……?」
すらすらと、王子は詩を詠んだ。
その声は、周囲の喧騒を掻き消すほどに深く、低く、そして甘やかにリコの耳に届いた。王族の最高教育を受けた彼ならではの、完璧な抑揚と感情の籠もった朗詠。
そしてリコをまっすぐ見つめる。
その真摯な眼差しに、リコは息を呑んだ。いつもの悪戯っぽい光は消えている。
「俺から君に贈る詩だ。行くぞ、走れ!!」
「え、ええ……!?」
ギュッと手を握ってブラッド王子は人混みに向かって駆け出した。




