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極寒だ。
冗談抜きで、空間の水分が凍りついてパキパキと音を立てそうなほどの威圧感だった。デンバー領に一足早い冬が来た。リコはそう思った。
冷気を静かに発している男はリコに詰め寄る。
その歩幅の狭め方に、リコは思わず後ずさりして壁に背中を打ち付けた。扉の外に控えていた将軍のお付きのもの達は、関わりたくないとでも言うように、忙しげに再び部屋の中へ戻って行った。誰もがこの生真面目な青年の放つ絶対零度の怒りに巻き込まれたくないようだった。
「さ、さあ……?あの、私は仕事の続きがありますので、」
リコがスイと逃げようとするも、その腕をがっしりとジルにつかまれる。
逃げ道を完全に塞がれ、リコは冷や汗を流した。その時、少し離れた壁際に寄りかかっていた男が、のそりと動き出した。
「どうやらアリナはブラッド王子の目に止まったようだ。王族など、厄介だぞ。気をつけろ」
壁脇に控えていたアンジが口を挟んだ。
その言葉を聞いた瞬間、リコはすべての合点がいった。なぜギラス将軍が、ブラッド王子と自分の間の「火の粉」について知っていたのか。
(この野郎、将軍様に喋ったのもコイツだな。)
リコはむっとアンジを睨む。
当のアンジは、どこ吹く風といった様子で、視線を逸らして知らん顔を決め込んでいる。その態度が余計にリコの怒りを煽った。しかし、リコがアンジに文句を言う前に、ジルの怒りの矛先が移動した。
「全く、あなたは少し目を離すとこれだ。アンジさんも何をしていたのです。あなたは護衛でしょう。」
ジルはいらだたしげにアンジに八つ当たりしている。
普段はアンジを立てているジルだったが、リコの安全(あるいは貞操)が絡むと吹き飛んでしまうらしい。向けられた怒りの鋭さに、リコは肩をすくめて、口を尖らせた。ここで二人が言い争うのも本意ではないし、何よりアンジを不当に責めるのは違うと思ったからだ。
「アンジさんは悪くありません。向こうが勝手にやってくるのです。キスされそうになった時もアンジさんはちゃんと守ってくれましたよ」
「キ、キ、……あの変態腹黒王子め……!!!」
ジルの目が座っている。
その瞳の奥に、本物の殺意に似た炎が揺らめいたのをリコは見逃さなかった。あまりの剣幕に、リコは自分の失言を激しく後悔した。火に油を注ぐとはまさにこのことだ。
リコは突然その両肩をジルに掴まれた。
かなりの力だった。ジルの真剣極まりない顔が、至近距離まで迫る。
「いいですか、もう王子とは関わっちゃいけません!男は皆歩く下半身と思いなさい!」
「なっ……」
あまりの極論に、リコは言葉を失う。まさかまさかあのジルから、「歩く下半身」などという凄まじい単語が飛び出すとは思わなかった。
「いいですか、返事はっ!?」
とてつもない勢いで迫るジルに、リコは思わず圧倒され、反射的に返事をしてしまう。
「は、はい、!」
「アンジさんも、アリナをしっかり頼みますよ!!……それでは私は仕事に戻らないといけないので!!」
根が真面目な男、ジルは鼻息も足音も荒く一足先に去って行った。
廊下の曲がり角へと消えていく彼の背中からは、まだ目に見えるような怒りのオーラが立ち上っていた。激しい足音が遠ざかっていく。
その後ろ姿を見送り、リコは困ったようにアンジを見上げる。どっと疲労感が押し寄せてきた。
「ジルの言うことは半分くらい本当だ。男に気をつけて損はない」
アンジは去っていったジルの方向を見つめたまま、しみじみとした調子でそう言う。
「私だって別にブラッド王子と関わりたくはないんですう……」
リコは何となく理不尽な思いに苛まれ、頬を膨らませながら神殿へ戻ることにした。
◇◆◇
サーカスの一座に音楽隊、街のあちこちに市が並び立つ。
北の果ての要塞都市デンバー領が、華やかに色づく特別な一日――それが『月詠祭』であった。
普段は厳しい軍律と冷たい石壁に囲まれた城下町だが、今日ばかりは色鮮やかな万国旗や花飾りが通りを埋め尽くし、至る所から旅の楽団が奏でる陽気なギターや太鼓の音が響き渡っている。街の賑やかな喧騒が黒城にも届いていた。今日の売り上げに関しては税が大幅に減税されるため、デンバー領各地から出店を開こうと商人達が集まってくるのだ。珍しい北方の毛皮、異国の香辛料、甘い焼き菓子の香りが混ざり合い、熱気となって要塞の分厚い城壁さえも包み込んでいた。
開かれた将軍府にも行商人達が多く出入りし、皆色めき立っている。
このお祭りの熱気は、普段は静粛を保っている城の内部にも確実に浸透していた。特に文化や芸術を司る図画館は、その影響を最も大きく受けている場所の一つだった。図画館の図画員達も今日はフリーマーケットに自分の絵を出品する者が多く、休みをとっている者達ばかりなので今日ばかりは開店休業状態だ。
いつもなら絵の具の匂いと静かな筆の音に満ちているアトリエも、今日ばかりは人影がまばらで、リコが手伝えるような作業は何も残っていなかった。
従ってリコも今日は図画館の手伝いは行えず、朝から客室棟の清掃を手伝っている。
お祭りの日であっても、王都からやってきた高貴な賓客たちが滞在する客室棟の維持管理に休みはない。それどころか、お付きの者たちの出入りが増えるため、清掃の仕事は普段以上の激務となっていた。しかし、働いている使用人たちのモチベーションは驚くほど高かった。なぜなら、客室棟長から、仕事が終わり次第上がって良いとのお達しが出ているのでみんな少しでも早く仕事を切り上げようと鬼のように働いているのだ。
早く終わらせれば、それだけ長く月詠祭の夜市を楽しむことができる。誰もが目にも留まらぬ速さで雑巾を動かし、廊下をモップで磨き上げていた。リコもまた、リネン室から受け取った大量のシーツを運び、息を切らせて客室の窓を拭いていた。
「アリナちゃん、一階の外廊下の掃除を手伝ってきてくれるかい?呼ばれているんだ」
不意に、背後からバタバタと近づいてきた客室棟長がリコに向けてをかけた。
「はーい」
リコは窓を拭いていた手を止めテキパキと片付けると、一階の外廊下へ向かっま。
使い古した雑巾や洗剤のバケツを手早く壁際に寄せ、乱れた髪をかき上げながら歩き出す。客室棟の一階へと続く階段を降り、目的の外廊下へと足を進めた。
黒い石造りの外廊下は、秋の風が吹き抜けて、この季節はとても心地よい。
遮るもののない北方の大地から吹き付ける風は少し冷たいが、朝からの重労働で火照ったリコの身体には、それがむしろ有り難かった。晴れの日は開きっぱなしになっている扉をくぐって外廊下へ出たときだった。
「わっ……」
曲がり角に差し掛かった瞬間、視界の端に何かが飛び込んできた。避ける間もなかった。
扉の死角から歩いて来た人と盛大にぶつかる。
リコは手にしていた掃除用具を放り出し、衝撃で後ろへと弾き飛ばされた。床の冷たい石畳に背中を打ち付けるかと思ったが、その衝撃がやってくることはなかった。リコはしっかりとアンジに支えられた。
後ろに控えていた大柄な護衛が、大きな手でリコの身体をがっしりと受け止めてくれたのだ。
慌てて顔をあげると、男が一人、外廊下へ尻餅をついている。見たことのある黒髪の男だ。
夕日に照らされたその気品溢れる顔立。リコは一瞬で、自分が誰とぶつかってしまったのかを理解し、全身の血の気が引くのを感じた。
「ブラッド王子……!!!大変!!申し訳ありません!!!」
リコはアンジの腕から飛び出すようにして、床に平伏せんばかりの勢いで頭を下げた。
「いたたたた、ああ、痛いなあ。」
床に座り込んだまま、ブラッド王子はわざとらしいほど大袈裟に声を漏らした。その演技がかった声音に、リコは冷や汗を流しながらも、戸惑いを隠せない。
「大丈夫ですか!?」
慌てて王子のそばへ駆け寄る。
最悪の事態が頭をよぎった。もしこれで王子に怪我でもさせていたらどうなることやらわからない。




