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 彼の姿を見て、リコは目を丸くした。彼も仕事を中断してきたのだろうか、城壁の衛兵の帽子を被り、帯剣している。制服の随所には微かに土や砂の汚れが残っており、彼もまた慌ただしく呼び出されたことが一目で分かった。


「あれ、ジルさんですか?」


「アリナ、将軍に謁見するというのにあなたはなんて格好しているんですか……」


 リコを見るなり、ジルは呆れたように言う。

 生真面目な彼にとって、将軍の前に絵の具まみれのつなぎ服で現れるリコの姿は、到底信じがたいものだったのだろう。その鋭い視線がリコの頬や服の汚れを咎めるように射抜く。


「し、仕方ないですよう!こっちだって仕事中に急に呼び出されんです!」


「しっ、静かに!ギラス将軍が来られましたよ!」


 リコが口を尖らせて反論していると、先ほどの高位のメイドに叱られた。

 慌ててリコは口をつぐんで姿勢を正す。

 背筋を限界まで伸ばし、頭を深く垂れる。部屋の空気が一瞬にして一段と重くなった。

 ガチャリと扉が開く音がして、複数の足音が部屋に入ってきた。続いて、ずっしりとした質量を感じさせるドサリと椅子に腰掛ける音が響く。


「ほほ、急に呼び出してすまぬの」


 静寂を破ったのは、およそ最果ての覇者とは思えないほど、心地よく朗らかな声だった。


「堅苦しいことは抜きじゃ。座れ座れ」


 リコが恐る恐る視線をあげると、アンジに軽く背中を押されてリコとジルはソファーに腰掛けた。

 勧められるがままに腰を下ろすと、上質な革のソファーがリコの身体を深く沈み込ませる。すぐさまメイドが静かにティーカップを準備する。洗練された無駄のない動きで、温かいお茶が注がれていく。

 リコは正面に座る人物を盗み見た。

 ギラス将軍は黄色味がかった豊かな白髪と髭の老人だった。

 長い年月を生き抜いてきたことを物語る深い皺が刻まれているが、その眼光は驚くほどに澄んでおり、深い知性を湛えている。座っているが、それでもその身長が高いということが分かる。大柄なアンジをも凌駕するのではないかと思わせるほどの頑強な骨格。しかし、その厳つい風貌とは裏腹に、ニコニコと人の良い笑みを浮かべるその様子を見て、リコはほっと息をついた。


「急に呼び出してすまぬの。会談の時間じゃかったが、先方がぎっくり腰で動けなくなったらしいわ。せっかく時間が空いたことだし、わしのかわいいかわいい『訳ありの親戚』の顔を見ておきたいと思ってのう」


 リコはその表現にむず痒くなって、居心地悪そうに居住まいを正す。

 周囲の人間には自分の正体を隠すためにそのように触れ回っているのだろうが、当人の前で堂々と「かわいいかわいい『訳ありの親戚』」などと言われると、どうにも居たまれない。……だからその「訳ありの親戚」とはなんなんだ。


「どうじゃ、城での生活に何か困ったことはないかのう?」


 ギラス将軍は朗らかに笑いながらティーカップに口をつけた。その仕草一つにも、長年北の将軍として君臨してきた者の自然な威厳が満ちている。


「いえ、皆さまとっても良くしてくださいます。何不自由なくさせていただいてとても感謝しております!」


 リコが答えると、ギラス将軍はティーカップを置いてまたニコニコと笑った。

 嘘偽りのない本心だった。このデンバー領の人々は皆、リコを温かく受け入れてくれている。


「そちらも困ったことはないかの?」


 ギラス将軍の視線が、隣の生真面目な青年へと移る。


「はい、お心遣いに感謝しております」


 ジルもそつなく答えている。


「さてさて」

 ギラス将軍が手を振ると、それまで背後に控えていた使用人たちが一斉に動き出した。斜め後ろに立つ側近の男を一人残し、スッとお付きの者達が一斉に退散する。

 部屋の扉が静かに閉められた。


「アンジ、そなたもじゃ」


 部屋に残っていたアンジも指摘をされ、一瞬片眉を上げるが、部屋から退室していく。

 部屋には側近の男を含めて四人だけになってしまった。

 

「リコ殿……今はアリナ殿、かの。どうやらあちこちで城の手伝いをしてくれておるようじゃな。各方面から報告が上がってきておる。礼を言うぞ」


「い、いえそんな……ただ匿ってもらうばかりも申し訳ないですし、そんな大したことはしておりません」


 リコは慌てて首を横に振った。


「今は神殿で壁画の補修を手伝っておるそうじゃな。聞けば王都でも高名な画家であったとか。……その腕を我がデンバー領で奮ってくれるとはありがたく思うぞ」


「い、いえ……あまりそのように褒められた絵では無いのですが……」


 リコは引きつった笑みを浮かべるしかなかった。

 王都での私の評価なんて、評判になっているのは、色男達の俗な姿絵である。もしその事実が将軍様の耳に入ったらどうなるか。絵を見せてくれと言われはしないかとリコは少しヒヤヒヤした。


「王都で高名な画家のリコ殿か……ふむふむふむ……アンジはそなたに何か言っておらぬか?」


 ギラス将軍は少し考えるそぶりを見せた後、リコにたずねる。

 その問いかけの意図が掴めず、リコは瞬きを繰り返した。アンジが自分に?


「アンジさん……ですか?いえ、特には何も言っていないと思いますが」


 リコが首を傾げて見せると、ギラス将軍はおもしろそうにほほ、と笑った。


「そうかそうか。よいのじゃよいのじゃ。して、ジル殿。そなたは城郭の防壁を手伝ってくれておるとか。礼を言うぞ」


「こちらこそ、寝食をする場所に給金までいただき、感謝しております」


「二人とも陛下より預かる大事な御身じゃ。困ったことがあればなんでも言うが良いぞ。ここは北の果てでのう。王都の噂話からは遠いが、事情は陛下から聞いておる。わしのかわいい孫……ヘクセル王子を守る証人じゃそうだな。なんとも数奇な巡り合わせじゃて。リコ殿が構わんのなら是非ともこのデンバー領に末永く住まわってもらいたいものよ」


 また朗らかにギラス将軍はほほ、と笑う。

 すると、後ろに控えていた側近が将軍に近寄り口早に何か囁いた。懐中時計を確認した側近の言葉に、老王はあからさまにつまらなそうな顔をする。


「なんと、もうそのような時間か。呼びつけておいてすまぬが、尻に火がついておる。二人とも下がって良いぞ」


 リコとジルは一礼して立ち上がった。ギラス将軍は忙しい男なのである。

 分刻みの予定をこなす将軍様の時間を取らせてしまったことを申し訳なく思いつつ、リコは緊張から解放される安堵感とともにホッとして退室しようとした。

 くるりとむきを変え、部屋を出る寸前、不意に後ろから声がかかった。


「そうじゃ、リコ殿」


「はい」


 くるりとリコは振り返る。

 扉の取っ手に手をかけていた手を離し、もう一度ギラス将軍の方を向いた。将軍の顔からは先ほどまでの柔和な笑みが消え、どこか悪戯っぽく、しかし観察するような鋭い目がリコを捉えている。


「わしのかわいい曾孫のブラッドがそちに火の粉をかけておるらしいの?代わって謝っておくぞ」


「えっ……」


「下がって良いぞ」


 将軍のその一言で二人は部屋から追い出された。

 弁明の余地すら与えられず、背後の扉がバタンと静かに、しかし断固として閉められる。リコは廊下に放り出されたまま、完全に硬直していた。


 部屋から出た瞬間、隣の男から冷気が漂い始める。

 あまりの温度差に、リコは首をすくめた。ジルの横顔を見ると、その端正な顔立ちが、かつてないほど無表情に、それゆえに恐ろしく怒りに満ちて強張っている。


「ジ、ジルさん……?」


「ブラッド王子の『火の粉』とは一体なんのことでしょうか」





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