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「!……いやっ!!!!」
ガターン!
リコが叫んだと同時、バスルームの扉が乱暴に開く。
激しい衝撃音と共に、浴室の木製の扉が壁に叩きつけられた。王子の唇は、かろうじてリコの唇のすんでで止まっている。ブラッド王子は驚いたようにに動きを止め、乱入者の方向へと首を巡らせた。
そうだ、まだ彼がバスルームにいたのだ。
リコ自身、恐怖のあまり完全に失念していたが、この部屋にはもう一人いたのだ。
「アンジさん!!!」
リコが助けを求め声をあげると、一瞬目をむいて固まっていたアンジが大股で二人に近寄った。
普段は無気力で、どこか世捨て人のような雰囲気を漂わせているアンジだったが、今の彼の瞳には、かつて戦場を潜り抜けてきた男特有の、鋭く冷たい光が宿っていた。
ようやく王子はリコから体を起こす。
執務机の上の重圧が取り払われ、リコは酸素を求めるように二、三度大きく息を吸った。
アンジは三角巾にエプロン姿で、モップの柄を王子に突きつけていた。
その格好はお世辞にも格好良いとは言えなかったが、彼が構えるモップの柄の先端は、寸分の狂いもなく王子の喉元を的確に捉えていた。一歩でも動けば、その喉笛を突き破らんとするばかりの構えだ。
「アリナから離れてください……王子」
アンジの声には、怒気も、あるいは恐れもなかった。ただ淡々と、業務を遂行するかのような冷徹な響きだけがある。ブラッド王子は喉元に突きつけられた木柄を面白そうに見下ろし、次いでアンジの顔を確認すると、口元を歪めた。
「お前は……母上に怒鳴られていた奴か。罪人が私に逆らうか」
しかし、アンジは怒る様子もなく、赤子に諭すかのように冷静に言う。
「私はギラス将軍より仰せつかり、その娘の護衛を担当しております」
ギラス将軍——すなわち、この北方領土を統べる最高権力者であり、ブラッド王子にとっては曾祖父にあたる老英傑の名。
「曾爺様が……?」
ブラッド王子は訝しむように眉をひそめ、リコを見下ろした。
一介の使用人、あるいは図画員の手伝いだと思っていた少女の後ろに、まさかあの厳格な曾祖父の影があるとは。王子といえど、このデンバー領において将軍の意思に逆らうことは、本意ではない。アンジはモップの柄を微動だにさせず、さらに静かに言葉を重ねる。
「王子、退いてください。大事にはしたくないでしょう」
「…………」
王子はようやくリコから体を離した。
彼は突きつけられたモップの柄が下ろされるのを見ると、乱れた衣服を整え、興味深そうに視線をリコへと投げかけた。
アンジがリコを助け起こし、リコの手を引く。手早く掃除道具を拾い集め、リコは逃げるようにその部屋を後にした。
◇◆◇
しばらくたったその日も、リコは丁寧に壁画の補修をしていた。
神殿の内部は、外の喧騒が嘘のように静まり返っており、高い天井から差し込む微かな光が、埃の粒をきらきらと輝かせている。リコが対峙しているのは、古くからこの北の地に伝わる、恐ろしい鬼の胴体に宝剣が突き刺さった凄惨かつ厳かな構図の壁画だった。剥げかけた絵の具の層を見極めながら、かつてこの絵を描いた異国の絵師の呼吸に合わせるように、慎重に筆先を動かす。鬼の胴体に突き刺された宝剣に丁寧に線を入れていく。
(こっちの線はもう少し細い筆で仕上げたほうが良さそうね……)
リコが口に咥えていた細い筆を取り、再び宝剣に線を入れようとした時だった。
神殿の重厚な扉が音を立てて開け放たれ、切迫した足音が石畳を叩いてこちらへと近づいてきた。
「アリナちゃん、将軍様がお呼びだって!急いで来て!」
「へ?」
突然の呼び声に、リコは思わず間の抜けた声をあげてしまった。
リコが急いで脚立を降りると、神殿の外に連れ出される。一体何が起きたのかを掴めないまま、促されるがままに外へ出ると、神殿の前では高位のメイドがリコのことを待っていた。そのメイドは、普段リコが廊下で見かけるような若い使用人たちとは明らかに一線を画す、仕立ての良い衣服と威厳を纏っている。
「まあ、……まあまあまあ……」
眼鏡をかけた厳しそうな表情のそのメイドはリコの様子をつま先から頭まで見て呆れたような声を出している。
無理もなかった。今のリコは、まさに職人の作業着そのものの姿だった。絵の具で汚れた品のないつなぎの服で、リコ自身も髪の毛や頬などあちこちに絵の具がついていた。ミルクティー色の髪には白い漆喰の粉が混じり、頬には鮮やかな青や赤の顔料がまるで戦化粧のように付着している。王府の最高権力者に謁見する格好としては、お世辞にも相応しいとは言えなかった。
「ああ、折角の貴重な戦力が……」
ハンクはリコとアンジが連れていかれるのを見て嘆いている。
神殿の補修作業が一時的に中断されることを惜しんでいるのか、あるいはこの奇妙な格好のまま最高権力者の前へと引きずられていくリコの運命を憐れんでいるのか、彼は大袈裟に頭を抱えていた。
「まあ、その格好でも仕方ないでしょう。ギラス将軍は人となりで相手を決めるような方ではありません」
そのメイドは諦めたように言うと、リコとアンジを連れきびきびと歩き始めた。
彼女の歩調は速く、迷いがない。リコは汚れたつなぎの裾を気にしながら、慌ててその背中を追いかけた。隣を歩くアンジは、いつものように無表情で淡々と足を動かしている。
「あの、どうして私は呼ばれたのでしょうか……?」
リコは歩きながら、ずっと胸に渦巻いていた疑問を恐る恐る口にしてみた。将軍にはまたいつかは挨拶をしなければならないと思ってはいたものの、まさかこのような抜き打ちに近い形で呼ばれるとは夢にも思っていなかったのだ。
「さあ、……私には分かりかねますが、ギラス将軍は忙しい方ですのであまり時間がありません。急いでください」
シャキッとした貫禄のあるメイドにそう言われて、リコは大人しくついて行く。
彼女の冷淡とも取れる毅然とした態度に、これ以上の質問は無駄だと悟り、リコはただ緊張に身をこわばらせるしかなかった。
案内された経路は、リコがこれまで足を踏み入れたことのない未知の領域だった。今までは入ったことのない中央棟の奥のエリアに通され、更に階段をいくつか上がる。
石造りの階段は磨き抜かれており、壁に掛けられた燭台やタペストリーの質も、リコが普段生活している居住棟や神殿のそれとは明らかに異なり、重厚で洗練されていた。上へ、上へと進むにつれて、空気そのものが緊張感で張り詰めていくのを感じる。
ここは何階だろうと不思議になってきた辺りで、ようやくリコとアンジは一つの部屋へ通された。
石壁でシンプルだが高級な家具であつらえてある部屋だ。
余計な装飾を削ぎ落とした厳かな空間の中に、深く艶やかな木目の机や、極上の革で作られた長椅子が配置されている。北の大地を統べる将軍の執務室、あるいは私室の一部なのだろう。
リコとアンジはソファーの側で立って待つよう指示され、リコは緊張に苛まれながら静かに待つことにした。
自分の心臓の鼓動が耳の奥でうるさいほどに響く。絵の具で汚れた自分の手が急に恥ずかしくなり、つなぎのポケットに隠すようにして身を縮めた。一方、隣に立つ大男を見上げると、その表情には微塵の動揺もなかった。アンジは既に何度も会っているのだろうか、慣れた様子で緊張している風には微塵も感じられない。
「…………」
沈黙が部屋を支配する。リコが緊張のあまり息を詰めていると、隣から驚くほど低い、しかし妙に落ち着く声が降ってきた。
「安心しろ。ギラス将軍は喰えないジジイだが、とって食いやしない」
緊張でガチガチになっているリコに、隣に立つアンジがそっと囁いた。ジジイ呼ばわりしているあたり、仲は良さそうだ。
その不敬とも取れる親しげな言葉に、リコは驚きつつも、不思議と肩の力が少しだけ抜けるのを感じた。
「あれ、あなた達も来ていたんですか?」
リコとアンジが話していると、更に後からジルもやってきた。




