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今さら「掃除をしていました」と机の下から這い出ていけば、まるで彼の動向を盗み聞きしていたスパイのように怪しまれるかもしれない。
リコは万年筆を握りしめる。
狭く薄暗い机の下で、リコは息を殺し、ただ嵐が過ぎるのを願った。しかし、足音は部屋の外へ出てゆく気配を見せない。しばらく部屋を歩き回る音がして、その足音が、徐々にリコが潜む執務机の方へと近づいてくる。
ついに、足音が机のすぐ目の前でピタリと止まった。
「……そんなところで一体何をしているんだ?」
頭上から声が振ってくる。リコはあっという間に見つかってしまった。腰をかがめて王子はリコを覗き込んでいる。
その顔には、昨晩約束をすっぽかされたことに対する不機嫌さと、獲物を追い詰めた肉食獣のような好奇心が入り混じっていた。
完全に逃げ場を失ったリコは、引きつった笑みを浮かべながら、必死に弁明の言葉を探した。
「あ、あの……客室棟長に頼まれてお部屋のお掃除を手伝っていたんです」
「へえ、掃除ってそんなところまでしてくれるんだなあ?」
王子がその瞳をスッと細める。
その言葉の裏にある不信感と、彼女を弄ぼうとする響きに、リコの背中に冷たい汗が流れた。
「いえ、これは机から万年筆が落ちて、取ろうとした時にちょうど入室されたものですから……」
リコは万年筆を握りしめ、観念したように机から這い出た。
床から這い出し、埃を払いながら立ち上がると、目の前にブラッド王子がリコを見下ろしている。
王子の背丈は平民の女性であるリコよりも高く、その体躯が作り出す影が、リコの身体を完全に覆い尽くしていた。
王子が一歩、さらにリコに近づいた。
本能的な恐怖から、気圧されてリコが一歩後退する。
しかし、彼女が下がれる距離はごくわずかだった。すぐに腰の辺りに机がぶつかった。
これ以上、後ろには退けない。退路を完全に断たれたリコの前で、王子は逃さないとでも言いたげに、机に両手をついた。
リコの身体を左右から挟み込むようにして、王子の長い腕が机に固定される。……近い。距離が圧倒的に近い。
王子のまとう高級な香水の香りと、男性特有の熱い体温が、容赦なくリコの五感を支配していく。
「君は図画館で神殿の補修をしているはずだろう?」
王子の鋭い眼光が、リコのアメジストの瞳を射抜くように見つめていた。彼は、この要塞内で「アリナ」という少女がどのような動きをしているか、すでにある程度調べていたのだろうか。リコは喉の渇きを覚えながらも、必死に偽りの設定を口にした。
「いえ、私は図画員ではありません。ただ、将軍府はどこも人手が足りないので呼ばれてあちこち手伝っているんです」
嘘ではない。
王子が、リコの体を見下ろした。彼女が身に着けているのは、一般的な給仕メイドの衣装ではなく、地味な作業用の衣服だった。その不自然さを、王子の聡明な頭脳が見逃すはずもなかった。
「だからメイド服を着ていないのか。……図画員でもメイドでもないなら、君は一体何者なんだ?」
「わ、私は……」
リコは言い淀んだ。何と説明するのが正解なのだろうか。
自分が王都でブラッド王子の政敵たちから命を狙われている絵師「リコ」であるなど、逆立ちしても言えるはずがない。なんとか辻褄の合う言い訳をしようとぐるりと思考を巡らせて自らの首が絞まっていくような感覚に陥る。
「名は?」
王子の声が、低く命令調に響く。王族としての絶対的な権威がリコにのしかかる。
「……アリナ、です」
砂を噛むような表情で、リコは言った。
彼女の苦々しげな表情が「言いたくない」とありありと語っている。
あからさまに拒絶と不快感を示したリコの態度に、王子はそれに更に機嫌を害した様子だった。
王位継承者である自分に対し、一介の使用人風情がこれほどまでに心を閉ざし、視線を逸らそうとする。
いい加減近い体が更に近づき、リコにのしかかる。
王子の胸板がリコの胸元に触れそうなほどの距離。リコはいつの間にか仰け反って机に後ろ手をついた。
何とか彼との距離を保とうと上半身を限界まで後ろに傾けるが、それはかえって、彼女の防衛線を無力化する結果となる。
ぐいとあごを持ち上げられ、無理やり視線を合わせられる。
王子の強い指先がリコの顎を固定し、強引にその顔を上向かせた。どこか焦燥を孕んだ王子の瞳が、リコの視界を埋め尽くす。
「そうか、アリナ。……アリナ、君はなぜあの夜来なかったんだ」
「…………!」
昨晩の中庭でのすっぽかし。やはり、王子はそのことを根に持ってるようだ。当然だ。リコはわずかに目を見開いたが、王子の言葉は止まらない。
「女性にフラれるなんて、この年で初めてだったよ」
(あらあら、大層おモテになったようで!)
リコは心の中で悪態をついたが、そんなこと口には出せない。
王族として生まれ、その美貌と地位ゆえに、あらゆる女性から望まれるままに生きてきたであろうこの男にとって、一介の平民の少女に待ちぼうけを食らわされた事実は、許しがたい屈辱であり、同時に、これまでにない強烈な執着記憶に刻み込まれる原因となっていたのだ。
リコが静かに睨みつけると、王子は更に近づき、リコの耳に唇を寄せた。
耳元に吐息がかかる。
「大事に距離を詰めようと思ったんだが……いっそのこと、今奪ってしまおうか」
そう言って、リコの眼前でニッコリ笑う。
上からのしかかるように重圧がかかり、ガタリとリコは広い執務机の上に押し倒された。
机の上の書類やペンが派手な音を立てて散らばる。背中に走る硬い木の痛みを覚える暇もなく、リコは自分を完全に覆い尽くした王子の質量に息を詰まらせた。
「……うっ」
リコの襟元をたどり、鎖骨のあたりを王子の親指がなぞっている。
薄い衣服越しに伝わる指の感触が、悍ましくてたまらなかった。リコが殴るように胸元を叩いても王子はビクともしなかった。
やはり成人した男の筋力だ。平民の少女の非力な抵抗など、王子にとっては何てことはないのだろう。
そっと首筋を辿るようにして、彼の両手がリコの耳元の辺りまでやってきた。
がっしりと両側から頭を固定され、ブラッド王子の顔がリコに向かって静かに距離を詰める。
逃げられない。




