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 驚いてリコが辺りを見回すと、ハンクや図画員たち、そして先ほどの女性までもが、いつの間にか全員その場に跪くようにして控えている。王族の突然のお出ましに、その場の誰もが息を呑んでいた。


「ブラッド王子……!」


 リコも自分が置かれた状況にようやく気がつき、真っ青になって慌ててその場に頭を下げて控えようとした。自分のずぶ濡れの汚い格好が、あまりにも恐れ多かったからだ。だが、その動きは細い腕によって優しく遮られた。


「そんなことしなくてもいい」


「でも、お召し物が汚れてしまいます……!あ、あ、私なんてことを……」


 王子の高価そうな上着に、自分の服から滴る泥水が飛び散ってしまったのを見て、リコはパニックになりながらしどろもどろに声をあげた。もし不敬罪に問われれば、それだけで自分の命など簡単に消し飛んでしまう。


「君が気にする必要はないと言っただろう。それにしても、女性が水に飛び込むだなんて……王宮にいてはなかなか見れない光景だ」


 王子の口元に、ふっと悪戯っぽい柔らかな微笑が浮かんだ。その気さくな物言いに、リコは耳の裏まで頬が熱くなるのを感じた。当然だ。王宮で何不自由なく過ごす本物の貴婦人や王族の方々が、泥まみれになって顔料のために湖に飛び込んだりは絶対にしないのだろう。自分の派手な行動が、急に恥ずかしくてたまらなくなる。


「お見苦しい姿を見せてしまって申し訳ありません……」


 リコはいたたまれなくなり、視線を地面へとダラリと下げた。高貴すぎるブラッド王子の端正な顔を、恥ずかしさと緊張のあまり、まともに行視していられなかった。


「はは、あちこちに絵の具がついている」


 王子の楽しげな笑い声に、リコは慌てて自分の両頬を袖でゴシゴシと擦った。先ほどまで脚立の上で夢中で補修作業をしていたのだ。きっと顔のあちこちに、乾いた絵の具が派手にくっついているに違いない。ますます恥ずかしさが限界を突破していく。


「神殿の補修が行われていると聞いて見に来てみたのだが、もっと面白いものが見れた」


「…………!」


 面白がられている。最早リコは何も言えなかった。相手は王族なのだ。あまりの身分の格差に対する恥ずかしさと緊張で、恐れ慄いて俯いたまま、胸の前でただ紫の小箱をギチギチと握りしめるばかりだった。

 息が詰まるような沈黙の中、王子がわずかにリコへと身体を寄せた。


「今宵、あの庭のベンチに来れるかい?」


 不意に、すぐ耳元で形良い唇から低く滑らかな声が囁かれた。

 あまりにも予想外の言葉に、リコは驚いて弾かれたようにガバッと顔をあげた。あの庭のベンチ——それは、昨夜リコとヒナが歌集を広げ、そして王子と初めて言葉を交わした、あの中庭のベンチのことだ。

 なぜ、王族である彼が一介の作業員にすぎない自分を夜分に呼び出すのか。単なる気まぐれなのか。真意が全く読み取れず、リコはただ困惑と恐れの入り混じった目で、王子のどこか神秘的なアメジストの瞳を見つめ返すことしかできなかった。


「待っているよ」


 ブラッド王子はそれだけを静かに言い残すと、満足したようにリコからすっと身体を離した。まるで何事もなかったかのように、王子は再び大勢のお供を引き連れ、威風堂々とした足取りで神殿の奥へと入っていく。

 その背中を、リコはただ茫然と見送るしかなかった。

 足元からポタポタと冷たい水の雫を床に滴らせ、彫刻のように立ち尽くすリコのもとへ、やがて異変を察したアンジが険しい表情で足早に駆け寄ってきた。


「アリナ、大丈夫か。王子は何と……」


 心配そうに覗き込んでくるアンジの声を聞きながらも、リコの頭の中は先ほどの王子の囁きで完全に支配されていた。彼女の口からは、うまく次の言葉が出てこなかった。




◇◆◇




 あれから、リコはビクビクとして過ごした。

 ブラッド王子に誘われたことは誰にも言っていない。

 あの日、王都からやってきた若き王位継承権を持つブラッド王子から、夜の中庭へと呼び出されたこと——その事実自体が、今のリコにとっては破滅の引き金になりかねない。

 王族と二人で夜の中庭で逢引など、誰に見られるかわかったもんじゃないし、どんな噂を流されるかもわからない。

 ただでさえ彼女は王都の政争から逃れ、暗殺者の目を欺くためにこの北方要塞へと連れてこられた身なのだ。第一、リコは今は素性を隠して潜伏している身であり、派手な立ち回りは避けたかった。

 もし王族との「密会」などというスキャンダルが兵士や使用人たちの間で囁かれれば、どのようになるかなんて分かったものではない。。

 つまるところ、あの晩、リコは王子との約束を盛大にすっぽかしたのだ。

 それは彼女なりの、必死の自己防衛であり、明確な拒絶の意思表示でもあった。


 あの日の夜、廊下の窓からこっそり様子を覗くと王子がベンチに座っているのが見えた。

 冷え込む北方の夜風の中、外套を羽織った王子が、誰も来ない中庭のベンチでじっと誰かを待ち続けているシルエット。その姿を遠目に確認したとき、リコの胸には確かな罪悪感が去来した。少し心が痛んだが、自分に喝を入れて無視を決め込んだのだ。


(ダメよ、リコ。私はただの平民の絵師で、今は逃亡の身なんだから。王族の気まぐれに付き合っている余裕なんてないの)


 リコは窓のカーテンをきつく閉めると、自らの甘えを断ち切るように作業机へと向かった。

 代わりにジルにあげる絵を描くことに黙々と打ち込み、一晩で描き上げてしまった。

 ジルのあの実直な横顔、自分を命がけで守ってくれたあの強い眼差しを思い浮かべながらささやかな絵を描く時間だけが、彼女にとって唯一の心の救いだった。


 翌日の午後、すっぽかしの罪悪感と寝不足の頭を抱えながら、リコは「手伝い」に従事していた。


「アリナちゃん、ブラッド王子の客室の清掃を頼まれてくれない?」


 客室棟長から声がかかる。その瞬間、リコの心臓が嫌な音を立てて跳ね上がった。よりによって昨晩約束をすっぽかしたばかりの、あの王子の部屋の掃除など、絶対に御免被りたかった。

 リコは真顔で即座に断る。


「えっと、ごめんなさい。お断りです」


 普段の彼女なら少しは愛想笑いを浮かべて濁すところだが、今回ばかりは完全に余裕がなかった。彼女の初めての拒絶に、客室棟長は一瞬驚いたように目を瞬かせたが、熟練の使用人頭としての威厳を崩さず、リコの両手に硬い木製のバケツを握らせた。


「お断りをお断りします」


「えええ!そんな!」


 有無を言わさぬ口調だった。

 リコはバケツと一緒に清掃道具を押し付けられ、控室から放りされてしまった。

 廊下の冷たい空気に晒されながら、リコは自分の不運に深く溜息をつくしかなかった。

(くそう、アンジさんと控室で一杯茶をやっていたのが良くなかったか)

 サボっているように見えたからこそ、手隙の人間として真っ先に白羽の矢が立ってしまったのだろう。

 だが、清掃を頼まれると言うことは王子は今は部屋にはいないということだろう。

 それだけが唯一の救いだった。彼が不在の間に嵐のように手早く片付けて、この危険地帯から一刻も早く離脱すればいい。手早く終わらせてしまおうと決意し、リコはしぶしぶ彼の部屋へ向かう。

 重厚な客室の扉の前に立ち、リコは同行してくれた臨時の相棒へと声をかけた。


「手分けして終わらせましょう。アンジさんはバスルームをお願いします」


「はあ……」


 何で俺がとぶちぶち文句を言いながらもしっかりバスルーム清掃用品一式を揃えてアンジは浴室へと消えていく。

 彼の不満げな背中を見送り、リコはバケツに水を汲むと手早く掃除に取り掛かった。

 主のいない部屋は広く、静まり返っている。リコは雑巾を固く絞ると、部屋の調度品を次々と磨き上げていった。

 リコが大きな執務机を拭いていると、机の上から万年筆が一本机の下に転がった。

 細かな装飾が施された、明らかに高級な万年筆だ。


「あっ……」


 慌ててリコは机の下に潜り込む。

 机の奥深くへと転がっていった万年筆を回収するため、リコは狭い空間へと身体を滑り込ませた。床に膝をついて万年筆に手を伸ばしていると、ガチャリと部屋のドアが開く音が聞こえる。思わずリコは固まった。

 規則正しい、上質な革靴の足音が室内に響き渡る。それに続いて聞き覚えのある、しかし今は最も聞きたくない声が耳に届いた。


「ああ、そこで待っていてくれ」


 ……ブラッド王子の声だ。どうしよう!

 あまりのタイミングの悪さに、リコは心臓が破裂しそうなほどの衝撃を覚える。思わず机の下に隠れ込んでしまったリコは出るに出れなくなってしまった。




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