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 リコは慌てて画材を胸元に抱え、一礼をして控えようとした。

 

「王子……?」


ヒナも察したようで、慌ててリコに追従する。

 事態を瞬時に理解したヒナは、素早く頭を下げた。ペコリと頭を下げ、クルリと踵を返したところでその男から声がかかった。よく通る落ち着いた声だった。歳のころはリコより少し歳上だろうか。


「待ちなさい」


 呼ばれてびくりと二人は固まる。王族なんて高貴な方と接見したことはない二人なので当然だ。

 

「君たちはここで月を見ていたんだろう」


「…………」


 リコとヒナは固まったままだった。沈黙が中庭の空間を重苦しく支配する。何か失礼な対応をすれば、それだけで命が危うい。お付きの者から小さな叱咤の声が飛んでくる。


「これ、答えぬか!」


 お付きの側近が鋭い声を張り上げた。その威圧感に、リコはさらに身体を硬直させる。


「廊下の窓から見えたんだ。少し気になって私も来てみただけだから、私はもう行くよ。君たちはここで続きをすると良い」


 ブラッド王子の柔らかな声が聞こえてくる。


「…………」


 リコとヒナはやはり固まったままだった。

 だって、何と答えれば良いのかわからない。

 王族という遙か雲の上の存在から、これほど気さくに、かつ淡々と言葉をかけられるなど、普通の女の子と辺境の女戦士には、あまりにも想定外の事態だったのだ。


「邪魔をしてすまなかった」


 王子は風に髪を靡かせ、そのまま颯爽と去っていった。お供の者たちを従え、漆黒の外套を翻して歩く彼の後ろ姿は、月光を浴びてどこまでも絵画的で、冷徹な美しさを放っていた。唖然と二人は王子を見送り、しばらくして顔を見合わせる。完全に気圧されていた二人は、彼の姿が完全に見えなくなってから、ようやく大きく息を吐き出した。


「……イケメンでしたね」


 リコがつぶやくと、途端にヒナは気が抜けたようだった。張り詰めていた緊張感が、リコのあまりにも場違いで素朴な一言によって、一瞬で霧散していく。ヒナは肩の力を抜く。


「何ですかその感想は。私はどこか得態の知れないものを感じました。王族とは皆ああなんでしょうか」


「……そう?」


 リコは首を傾げる。

 王族は雲の上の存在。胸元に抱えた木炭と白い紙を見つめる。せっかくの創作の意欲も、今の衝撃ですっかりどこかへ吹き飛んでしまっていた。その日はもう絵を描く気にはなれず、リコはすごすごと部屋へ戻って行った。月詠祭まではあとわずかだ。



 翌日、リコは朝から神殿の補修を手伝っていた。

 この地特有の、長い年月を経てわずかに風化した白亜の神殿は、その前に広がる浅い湖の静かな水面を鏡のようにしていた。朝の柔らかな光を浴びた神殿の壮麗な影が、水面に映っては風の悪戯でユラユラと心地よさそうに揺れている。

 リコは口に一本の細い筆を咥えたまま、太い筆を器用に動かして、神殿の天井にほど近い高い壁の剥げかけた部分を慎重に塗っていた。作業用のつなぎ服は、すでに色とりどりの絵の具で斑点模様のようになっている。


「アリナちゃん、アリナちゃん」


 少しガタつく脚立の天辺近くに登って夢中で手を動かしていると、すぐ足元から、親しげに自分を呼ぶ声がかけられてリコは振り返った。

 見下ろすと、いつも親切にしてくれる下働きのふくよかな女性が、両手で大事そうに小さな木箱を抱えて立っていた。


「頼まれていた紫色を持ってきたよ。」


「あ、ありがとうございます!今取りに降りますね……!」


 リコは口から筆を離し、嬉しさに声を弾ませた。紫の顔料は希少で高価なため、届くのを今か今かと待ちわびていたのだ。リコが慎重に脚立のステップに足をかけ、降りようとした、まさにその時だった。


「ギャッ!」


 神殿の静かな空気を切り裂くような、その女性の短い悲鳴が響き渡った。同時に、リコが体重をかけていた脚立がぐらりと大きく揺れる。

 突然の激しい浮遊感がリコの全身を襲った。視界がぐにゃりと歪み、足の裏から確かな感触が消え去る。どうやら、その女性の足元に丸々と太った巨大なムカデが現れたらしい。驚いて飛び退いた彼女の身体が、そのままリコの登る脚立に激しくぶつかってしまったのだ。

 支えを失い、脚立から投げ出されたリコの身体は、なす術もなく空中に投げ出された。


(地面にぶつかる!!!)


 ヒュッと驚きで胸の奥で何かが縮むような感覚がした。リコは無意識に痛みに備えてギュッと身体に力を入れる。

 しかし、硬い石畳の衝撃が彼女を襲うことはなかった。次の瞬間、リコの身体は、信じられないほど強固で温かいアンジの腕の中にすっぽりと収まっていた。

 上空から落ちてきたリコを、彼は予測していたかのように軽々と受け止めたのだ。鍛え上げられた太い腕にしっかりと抱えられて、リコは安堵からホッと小さく息をついた。


「あ、ありがとうございます……アンジさん」


「いや、無事でよかった」


 アンジはいつもと変わらぬ低い声でそう言うと、リコをそっと安全な地面に下ろし、そのまま流れるような動作で腰の剣をすらりと抜いた。彼の視線は、すでに床を這い回る元凶へと向けられている。

 リコが我に返って辺りを見回すと、神殿内は一瞬にしてパニックに陥っていた。


「ぎゃああああ!ムカデええええ!」


「いやあああああ!」


 ハンクは情けない声をあげて神殿内を無様に走り回り、先ほどのふくよかな下働きの女性は、壁画にへばりつくようにしてガタガタと震えている。他の図画員たちも一様に、仕事の道具を放り出してその場からクモの子を散らすように逃げ散らかし、遠くの柱の陰からおそるおそる様子を伺っていた。

 この世の終わりかのような阿鼻叫喚の地獄絵図は、アンジが冷徹な一撃でムカデの頭を的確に地面に突き刺したことで、あっけなく幕を閉じた。ようやく危機が去り、涙目のハンクと女性が壁際で肩を上下させて息を整えている。


「あれ……?紫の顔料がないわ……」


 しばらくして、ようやく腰を抜かしていた女性が、力の抜けた声を出した。

 その言葉にハッとしたリコがキョロキョロと辺りを見回すと、どうやら先ほどのムカデ騒ぎの拍子に手元から投げ出されてしまったらしく、紫の顔料が入った小箱は、神殿のすぐ目の前に広がる湖の水面にぷかぷかと寂しげに浮いていた。ゆっくりと岸から離れていく小箱を見て、リコは叫んだ。


「大変!」


 リコはつなぎの服の裾が水に濡れるのも全く構わず、そのまま湖にざぶざぶと勢いよく駆け込んだ。どうせこの服は日頃の作業で絵の具まみれになり、汚れている代物なのだ。今さら少しばかりの水に濡れたところで、大した問題ではない。何よりも、絵師として貴重な画材を台無しにすることだけは絶対に許せなかった。

 冷たい水が太もものあたりまで容赦なく染み込んでくる。水を吸ってずっしりと重たくなった服に足をとられそうになりながらも、リコは必死に腕を伸ばし、ザブザブと湖面をかき分けてどうにか小箱を手に取った。

 リコは服の乾いている袖の部分で小箱の水気を丁寧に拭ってから、そっと蓋を開けた。中身の粉末は厳重に密閉されていたようで、幸いにも水は一切侵入していない。中身は完全に無事なようだった。


「無事ですよう!」


 リコは思わず嬉しくなり、湖の中から神殿に向かって小箱を高く掲げ、声を上げた。


「そんな、アリナちゃん濡れるのに……ごめんなさい!」


 神殿の入り口でハラハラしながら見守っていた下働きの女性が、今にも泣き出しそうなほど申し訳なさそうに手を合わせて謝っている。


「いえいえ、構いませんよう!紫は高価ですからねえ!」


 リコは太陽のような明るい笑みをニコニコと浮かべて答え、再び冷たい湖面をザブザブとかき分けながら、神殿のある岸辺へと戻っていった。その時だった。

 湖面から神殿の石段へと上がろうとした、まさにその瞬間。

 ずぶ濡れで足元の狂うリコを助けるかのように、目の前にニュッと、驚くほど白く整った細い手が上から突き出された。

 差し伸べられた手の主が誰かも分からぬまま、リコが驚いて顔を見上げると、そこには美しく濡れたような漆黒の髪が視界いっぱいに広がった。続いて、陽の光を受けて怪しく、そして吸い込まれそうなほど深く煌めくアメジストの瞳が、優しくリコを見つめている。


(ブラッド王子……!?)


 なぜ、彼がここにいるのか。

 目の前の美貌の男は、呆然とするリコの手を躊躇うことなく取ると、細身の体からは想像もつかないほど確かな力強さでリコを水の中から岸へ引き上げてくれた。







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