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 土の曜日。

 この日ばかりはリコも朝から客室棟に駆り出され、ブラッド王子と第二王女の客室の最終調整の手伝いを行っていた。

 最果ての要塞に、王都の華やかな空気をそのまま纏った高貴な御方々を迎えるのだ。客室棟の空気は、朝一番からまるで見えない火花が散っているかのようにピリピリと張り詰めていた。リコは実用的なつなぎ服から、王府で準備してもらった質素な町娘の服装に着替え、手際よく部屋の埃を払い、シーツの細かな皺を伸ばしていく。そんな風に忙しく手を動かしながらも、リコの耳には、周囲で同じように作業を進めるメイドたちのひそひそとした噂話が自然と飛び込んできた。


「フェフィリア妃殿下はとってもお洒落なのよ」


 フェフィリア妃殿下とは、今回の主賓の一人である第二王女のことである。リコはモップを動かす手を緩めずに、メイドたちの会話にそっと耳を傾けた。


「まあ、そうなんですか?」


 年若いメイドが、目を輝かせて先輩メイドに問いかける。


「ええ、昔一度だけ見たことがあるけれど、とっても美しいデザインのドレスを着ていたわ。きっと私たちのお給料じゃあ買えない代物でしょうねえ」


 年長のメイドが、記憶の中の華やかな光景を思い出すようにして、年若いメイドとキャッキャと騒いでいる。厳しい北の大地にあって、王都の最先端の流行や美しいドレスの話は、彼女たちにとって最高の娯楽なのだろう。


「確かに、いつも流行の先端を行く方だと噂を聞いたことがあります!運が良ければお目にかかれるかしら!」


 若いメイドは、本物の王女を一目見られるかもしれないという期待に、嬉しそうにその場でピョンピョンと飛び跳ねた。

 だが、その微笑ましい平穏は、突如として室内に響き渡った鋭い声によって打ち砕かれた。客室棟長の檄が飛んだのだ。間が悪く今部屋に入ってきたらしい。


「こら!無駄口を叩く暇はありませんよ!たった今第三の郭に御二方が到着したと早馬の伝令がありました。お付きの者たちの部屋の準備も出来ていますか?」


「ひっ……!」


 部屋にいたメイドたちは大慌てて掃除道具を片付け始める。棟長の放つ圧倒的な威圧感に、誰もが背筋を凍らせていた。リコも急いで手元の仕事を終わらせると、慌ただしく動き回るメイドたちに遅れをとるまいと、一緒になって控えの部屋へ引っ込んだ。


 客室棟の片隅にある控えの部屋は、使用人たちの休憩室にもなっている。

 王府の少ないメイドたちが、王子の到着に伴って、それぞれの持ち場から一時的にこの控え室へと帰ってきていた。


「いよいよ、御到着ね……」


「粗相のないようにしなきゃ」


 室内には、緊張と興奮が混ざり合った独特の熱気が満ちている。実際の出迎えや客室への案内といった表舞台の仕事は、すべて経験豊富な年長の執事や格式高い使用人が仕切ることになっていた。数人のベテランメイドたちは、これから直接、妃殿下と王子付きの専属メイドとして最前線で立ち働くことになり、その他の一般メイドたちはお付きの兵士や文官たちの世話をすることになるだろう。

 その点、リコは宮廷作法を正式に学んだわけではないため、当然のように完全な裏方の作業をすることになっていた。リコはただの手伝いで、他のメイドたちのようなお揃いの制服もなく、王府で準備してもらった質素な町娘の服装をしており、こんな格好で妃殿下や王子の前に出られるわけもなかった。


 その日は大忙しの一日となった。王族とその一派が到着した瞬間から、要塞の人手不足は限界を突破したのだ。食器の上げ下げ、大量の洗濯物、次から次へと汚れる廊下の掃除と、やることは目まぐるしく、リコもその護衛であるアンジも、息を継ぐ暇もなくあちこちを駆け回った。アンジのような屈強な男の手を借りなければ、とてもではないが回りきらないほどの激務だった。


 空が北国特有の深い茜色に染まり始めた頃、ようやく一通りの大掃除を終えたリコとアンジは集まったゴミを裏庭に出そうと静まり返った外廊下へ出たところだった。

 ひんやりとした夕方の風が肌を刺す。リコが両手に大きなゴミ袋を抱え、前を歩くアンジに続いて歩みを進めていると、廊下の向こうから、明確に異質な一団が近づいてくるのが見えた。

 前方から豪奢なドレスを着た女性と若い男が、数人のお供を連れてこちらへ歩いてくる。

 夕日の光を浴びて女性の纏う極上のシルクのドレスが怪しく輝いていた。その隣を歩く若い男の立ち振る舞いからも、隠しきれない高貴な覇気が漂っている。初めて見るが、言われずともリコはすぐにわかった。あの二人が、フェフィリア妃殿下とブラッド王子だ。


「こちらへ」


 ぐいとアンジに頑丈な腕を引かれ、リコは慌てて廊下の隅に控える。壁に背中を押し付けるようにして、両手にゴミを抱えたまま、ただただ深く頭を下げて通り過ぎるのを待った。

 複数の規則正しい足音が近づいてくる。高級な革靴が石床を叩く音、そして最先端の生地が擦れ合う衣擦れの音もする。

 やがてその足音が自分たちの真ん前を通り過ぎ、ホッとしてリコが顔をあげようとした、その時だった。

 カツン、と、その足音がピタリと止まった。

 どうしたのだろうと不思議に思っていると、通り過ぎるはずだった一団は、わざわざ足の向きを変え、リコとアンジの目の前に戻って来てピタリと止まる。深く俯くリコの視界に、先ほどメイドたちが噂していた、到底庶民には手の届かないであろう美しいドレスの裾が飛び込んできた。


「面を上げなさい」


 涼やかな、しかし冷徹な芯の通った声が外廊下に響いた。

 本当に顔をあげてもいいものだろうか。リコが戸惑って硬直していると、焦れったそうに、再び妃殿下が口を開く。


「よい、面をあげよ」


 逆らうわけにはいかない。恐る恐るリコが顔をあげると、すぐ目の前にリコと同じミルクティー色をした美しい髪の女性と、濡れたような黒髪の若い男が立っていた。フェフィリア妃殿下とブラッド王子だ。

 リコはブラッド王子の射抜くようなアメジストの瞳と目が合った。

 だが、王女の視線はリコではなくその隣に立つ巨漢に完全に注がれている。


「なぜお前がここにいる」


 フェフィリア妃殿下の口元は、贅沢な刺繍が施された扇で覆われていた。だが、その扇の奥から漏れ出る声は、紛れもなく激しい怒りで細かく震え、隣に立つ大男、アンジを親の仇かのように強く睨みつけている。廊下の温度が、一瞬で氷点下まで下がったかのような錯覚さえ覚えるほどの、凄まじい憎悪だった。


「遠流の身の上ゆえ、この北の地で暮らしております。ギラス将軍にお目かけいただき、将軍府で働いております」


 リコが息を殺し、そっと盗み見ると、アンジは表情を一切変えず、目を伏せたまま淡々と答えている。その声には何の弁明も、怒りも含まれていない。その様子をフェフィリア妃殿下は小さな身体を震わせ、下から鋭く睨み上げていた。隣のブラッド王子は、この異様な空気に困ったように妃殿下を見ている。王子のお供の者は皆一様に、この過去の因縁に触れるのを恐れるように後ろへ一歩引いて控えていた。


「お祖父様もこのような者に目をかけるなんて……よいか、いくらお祖父様がお前を可愛がろうとこの私はお前がしたことを忘れぬ!」





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