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 ハンクはせっせと壁の補修を続けている。彼の呑気な様子とは裏腹に、リコの心臓はドクンと脈打った。慌ててリコは作業を再開させながら尋ねた。


「ブラッド王子といえば、この間まで王都に第二王女様といらしていましたよね?」


 そうなのだ。その王子を歓迎するために王都の宮廷で開かれたお茶会、そこで起きた謎の「お茶菓子事件」こそが、こうして北の果ての大地まで逃げてくることになった原因である。もしあの事件が起きていなければ、自分は今でも小さなアトリエで大好きな絵をのんびりと描いていたはずだった。


「そうそう、そのブラッド王子だよ。ほら、ギラス将軍様は今は亡き王妃の父上だろ?だから隣国のイデール王国に嫁いだ第二王女の祖父であり、その息子のブラッド王子の曾祖父にあたるのさ。帰る前に将軍府に寄って、お爺ちゃんに会って行くらしい」


「へえ……そうなんですね」


 王子が何事も無かったかのようにこうして帰路に着き、親戚であるギラス将軍の元へ立ち寄る余裕があるということは、お茶菓子事件は秘密裏に処理が進んだということだろう。王都の権力者たちがどのようにしてあの事件に区切りをつけたのかは、この最果ての地までは伝わってこない。しかし、その当事者であるブラッド王子が、まさかこの要塞にやってくるなんて。


「ブラッド王子はいつ将軍府へいらっしゃるんですか?」


 リコは首を傾げて尋ねた。


「ええと、いつって言ってたかな?今日が月の曜日だからええと、うーん確か五日後の土の曜日には到着するらしいよ」


 ハンクは壁画を補修する手を止め、思い出すように頭を捻った。また少しカツラがずれる。

 あと五日。王子がやってくるとなれば、彼が宿泊する客室棟の周辺は非常に慌ただしくなるはずだ。


「へえ、もうすぐなんですね!……客室棟が忙しくなりそうです。お手伝いに行かないと」


「ダメダメ!アリナちゃんはもう図画館のお手付きなんだから、客室棟へは渡さないよ!」


 リコが思いついたようにそう言うと、ハンクはリコの手際の良さを大変気に入っているらしく、貴重な労働力を奪われてなるものかと、大仰に両手を振って拒絶した。リコはそんな彼をなだめるように、苦笑いを浮かべる。


「ハンクさんってば。心配しなくても、客室棟のお手伝いは補修のお仕事が終わる夕方から後にするようにしますよ」


「うーん、それならいいけど……」


 リコが高い脚立の上でハンクと言い合っていると、下からアンジが声をかけてきた。その厳つい顔をさらに険しくして口を開く。


「おいアリナ、無理するなよ?ハンクもあまりアリナをこき使うな。ギラス将軍の親戚だぞ?」


 アンジは、リコが将軍から預かった「特別な客人」であることを重々承知しているため、彼女が過酷な二重労働を自ら買って出ようとすることに反対なのだ。しかし、ハンクもまた、職人気質の頑固さでアンジに噛み付いている。


「将軍様の親戚だろうがなんだろうが、今は猫の手も借りたい状況なんだよ。王府の人手不足はアンジさんも知ってるだろ」


 全く怯むことなく言い返すハンクの姿に、リコは笑いながらその様子を眺めた。この要塞の人々が、誰もが必死で自分の役割を全力を尽くして全うしようとしている。


 次の日のから、リコは客室棟の手伝いもするようになった。

 朝は壁画の補修を手伝ったあと、お昼休憩を挟み二時を過ぎてからは客室棟のお手伝いである。どうやらハンクさんと客室棟のメイドたちがバチバチとやり合った結果この時間で分つことに落ち着いたらしい。絵師のプライドと、王子の来訪を控えたメイドたちの切実な叫びが激突した結果の、妥協の産物だった。

 客室棟も少ない人数でやりくりしており、どこも人手不足なのだ。王都の宮殿であれば何百人もの使用人が整然と動くところだが、この最果ての要塞では、一人が何役もこなさなければ到底回らない。そして、リコが手伝えばもれなくアンジという助力もついてくるので二人分の人材を確保したと言っても過言ではない。


「皆はアリナが客人ということをすっかり忘れている」


 アンジはリコがあちこち走り回るたびそう言っては頭を振った。

 しかし、文句を言いながらも、彼は護衛としての任務を全うするため、リコの行くところへはどこへでも付き従った。結果として、すっかり雑務が板についたようで、リコと一緒に雑巾を搾り床を磨き上げて、重たいシーツを運ぶ。

 北方でその名を知られた屈強な剣豪が、小さな女子の指示に従って、せっせと宿舎の床を磨いたり、洗濯籠を抱えたりしている姿は、城内の兵士たちの間で格好の噂の的となった。

 アンジのその姿は剣を振り回す今までの常とは異なり、「鬼の休息」と周りの人は揶揄した。普段の戦場での恐ろしさを知る者からすれば、これほど微笑ましく、また奇妙な光景はなかったのだ。


「何が休息だ、戦闘訓練の方が余程良いわ」


 大きな物干し竿に、洗濯したての真っ白なシーツを何枚も器用に干しながら、アンジは心底めんどくさそうに愚痴をこぼした。リコはそんな彼の背中に向かって、楽しげに笑いかけた。


「そうですか?私は死と隣り合わせの仕事より余程良いですよ?」


「人には向き不向きがある」


 アンジは疲れたようにシーツを干し終えた後、壁に背を預けた。

 大きく頑丈な体躯が、石造りの壁にもたれかかる。アリナも少しの間休息しようと倣ってアンジの隣に壁に背を預けて立った。

 

 周囲には、風に揺れる濡れたシーツが真っ白なカーテンのように幾重にも翻り、最果ての冷たい風を遮ってくれていた。リコが隣に立つアンジを見上げると、アンジも気がついたようにリコを見下ろす。ちょうどアンジの向こう側から日がさして逆光を作っている。彼の大きなシルエットが黄金色の光に縁取られ、その厳つい顔の細かなシワが、日の陰影によって深く刻まれていた。


「どうした」


 無言で見つめてくるリコに対して、アンジが不思議そうに声をかけてくる。リコがにっこり笑ってみせると、アンジも釣られたように口角をあげた。その微笑みは、普段の厳格な表情とは異なり優しく穏やかなものだった。


「ふふ、鬼の休息ですね」


 リコがからかうようにそう言うと、アンジは遠い空を見つめるように視線を彷徨わせ、静かに息を吐いた。


「これは……そうだな。確かに休息だ」


 アンジが懐かしそうに目を細めリコを見る。その瞳の奥には、今ここにいない誰かの面影が宿っているようだった。


「アリナは……知り合いによく似ている」


「そうなんですか?」


「ああ、全く似ていないのだが……やはりよく似ている」


「それってどっちなんですか」


 リコが笑うと、アンジは難しそうに眉を顰めた。


「さあ、……難しいな」


 アンジは言葉少なくそう言って、再び目を細める。しかし、リコの言葉にまた口元をへの字に曲げた。


「さあ、後は窓を拭かないと」




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