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 あまりの勢いに、リコとヒナの二人は思わず肩をビクッと震わせて驚く。そんな二人を尻目に、エリカはワンピースの裾を揺らしながら、ついでに豊かな胸も揺らしながら、ずんずんと部屋へ入ってきた。その顔には何やら言い知れぬ憤慨と、同時に獲物を見つけた猛獣のような怪しい興奮が満ち満ちている。


「艶がない……!あなたたちさっきから盗み聞きしてたらぜんっぜん艶がないじゃないの!」


「なんですかエリカさん。ノックくらいしてください」


 ヒナはすぐに落ち着きを取り戻したようで、呆れたようにため息をつくと、カチャカチャと自分でお茶を淹れ始めた。この奔放な看護師の乱入には、すでに慣れっこになっているのだろう。

 エリカはヒナからお茶を受け取ると、当然のように椅子に座った。一口含んで、ふぅ、と色っぽい息を吐き出す。


「ちょっと遊びに来てみたらこれですもの。いい?月詠祭っていうのは、今ヒナが言ったようなキャッキャと楽しむだけのお祭りじゃないの。月を偲んで詩を詠んだのは大昔のことで、今では男女が月を詠んで恋文を送り合うお祭りなのよー?」


「「え、そうなんですか?」」


 見事にヒナとリコの声がハモる。

 武骨な戦士として生きてきたヒナも、恋愛沙汰にはとことん疎かったらしい。二人の純朴すぎる反応に、エリカは額を押さえて大仰に嘆いてみせた。


「あなたたちったら……」


 エリカが呆れたようにため息を吐く。その仕草のいちいちが、熟しきった果実のように凄まじく色っぽい。


「月詠祭に男に誘われるなんて、つまりそういうことよ」


 人差し指を立ててそう言ったエリカに、途端にリコはそわそわと落ち着かなくなった。

 「つまりそういうこと」らしいのだ。ただの賑やかなお祭りの見物ではなく、特別な好意を持った異性を誘い、互いの想いを確認し合うような、そんな情熱的な意味合いが含まれているという事実に、リコの頭の中は完全にキャパシティをオーバーしてしまった。


「ジルさんってば、処刑場から颯爽とあなたを救ってくれた殿方でしょう?素敵じゃない」


「そ、そうでしょうか……」


 リコは赤くなった顔を隠すように、もじもじと指先を絡ませた。ジルが命を懸けて自分を救い出してくれたことは、生涯忘れることのできない大恩だ。しかし、それを「男女の恋情」という枠組みで捉え直したことは、今までの逃亡生活の中では一度もなかった。


「あの白銀の髪、少し冷たそうな目尻、綺麗な鼻筋に笑うと意外とかわいい口もと……あなたがいいなら私がつまみ食いしちゃいたいぐらいよ。」


 ずいとエリカが身を乗り出し、リコの前に顔を突き出した。エリカの長い睫毛に縁取られた、まんまるな瞳が至近距離で眼前に迫る。その妖艶な香水の匂いが、リコの思考力をさらに麻痺させていく。


「どう?アリナちゃんはジルさんに誘われて嬉しい?」


 ヒナは立ったままお茶を啜っているが、茶杯の縁から上目遣いでこっちを見ている。普段の冷徹な仮面の裏側で、彼女もこの滅多にないゴシップの行方が非常に気になるようだった。

 リコは考えてみた。

 ジルとの付き合いは決して長くはないが、濃密なものだと理解している。

 下を向くと、さっきもらったばかりの靴が目に入った。


「う、れしいのかなあ……?」


「少なくとも嫌ではないってことね。」


 エリカが満足気に椅子に背を預ける。

 リコは自分の頬がじんわりと上気するのを感じて、そっと両手で頬に触れてみた。



◇◆◇






 切り立った岩山を削って作られた神殿の内部は、日中であってもひんやりとした厳かな空気に満たされていた。高い天井からはわずかな光が差し込み、空気中に舞う微細な埃を白く照らし出している。その静謐な空間の中で、リコは実用的な作業着の袖をまくり、木製の高い脚立の上でバランスを取りながら筆を握っていた。


「アリナちゃーん。こっちを頼めるかい?」


「はーい!ハンクさん!」


 リコはハンクと並んで壁画の補修を始めた。指示書を細かくみてその通りに仕上げていく。

 薄暗い神殿の壁には、何世代も前に描かれた古い宗教画が連なっていたが、北方の厳しい寒さと乾燥のせいで、あちこちの漆喰が浮き上がり色彩が剥げ落ちてしまっていた。リコに与えられた役目はその欠落した部分を古い指示書の記述と照らし合わせ、元通りの色彩で埋めていくことだった。

 そんなリコのすぐ隣で、同じように脚立に上ってせっせと筆を動かしているハンクは、金髪のカツラを斜めにズラしてかぶる、以下にも芸術家なこだわりを持った変わり者だった。整った目鼻立ちをしており、素材自体は決して悪くない。だがどうやら彼なりの美意識で、口元に大きめの黒子を描いて金髪のカツラを被っているらしい。最果ての地に生きる逞しい人々の中に混ざると、その大きめの黒子と金髪はあまりにも浮いており、かえって奇妙な違和感を醸し出していた。王都の芸術界にも一癖も二癖もある変わり者は大勢いたが、どうやらこの北の要塞でも彼はその都市伝説の一端を担っているようだ。

 カツラの被り方にもこだわりがあるのか、やや後ろに斜めにかぶっており、かつらがずれているようにしか見えない。リコが横から見ていると、今にもその金髪が後頭部から床へと滑り落ちてしまいそうで、気が気ではなかった。


「ハンクさん、カツラがずれていますよ」


 リコが作業の手を少しだけ止め、親しみと苦笑を交えてそう笑って指摘すると、ハンクは自分の完璧な美学を邪魔されたとばかりに、不機嫌そうに細い眉を跳ね上げた。そして、馬鹿にしたようにリコを鼻で笑った。


「ふん、君たちにはこの美がわからないんだよ。ホラ、手を止めないで」


 その言葉に、リコは肩をすくめて壁画の補修を再開する。

 これ以上彼の独特なファッションセンスに首を突っ込むのは野暮というものだろう。リコは手元のパレットに視線を戻し、再び集中することにした。


「これは一体何を表しているんですか?みたことがない絵です。」


 壁面に描かれているのは、幾重もの光の鎖のようなものが、何か巨大で禍々しい影を縛り付けている構図だった。王都の洗練された宮廷画や、穏やかな聖歌の世界を描いた神殿画とは明らかに異なり、どこか荒々しく、生々しい迫力に満ちている。




「これはかつての神話を表しているのさ。この地に瘴気をばら撒く鬼がいたそうだが、かつての王族の祖先がその身を呈して封印したそうだ。その時の鬼の四肢がこの神殿に封印されていると言われている。この絵は鬼が封印されるところの絵だよ」


「へぇー、そうだったんですねえ」


 リコはハンクの解説を聞きながら、前夜にジルが「触らぬ神に祟りなし」と真剣な面持ちでこの神殿を警戒していた理由が、ようやく腑に落ちたような気がした。ただの古い言い伝えだとしても、その「鬼の四肢」が封じられているとされる禁足地が、この神殿の奥深くのどこかに存在しているのだと思うと、肌に触れる冷たい空気が少しだけ不気味に感じられる。

 ハンクはリコの神妙な様子にはお構いなしに、自分の筆を動かしながら、今度は世間話でもするような軽い調子で言葉を続けた。


「王族といえば、今度黒城に隣国のブラッド王子が来るらしいね」


「え、ブラッド王子ですか?」


 リコは驚いて顔をあげた。








みんなブラッド王子覚えてる?


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