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「神殿の壁画の補修を手伝うって?」
夜、仕事終わりにいつものように部屋を訪ねてくれたジルは、眉を顰めて出された茶を飲む手を止めた。
彼の前に置かれた木製のテーブルの上では、淹れたてのハーブティーから白い湯気がゆらゆらと立ち上っている。昼間の城郭警備の任務を終えようやく一息つけるはずの時間だったが、ジルの穏やかな表情はリコが切り出した報告によって一瞬で険しいものへと変わってしまった。
「アリナ、あなたバレたらどうするんですか」
ジルはここにきてから徹底してリコのことを「アリナ」と呼ぶ。どうやら自分で名付けたこの名前が気に入っているらしい。リコという本名を口にして万が一にでも周囲に漏れ聞こえるのを防ぐための徹底した防諜措置でもあったが、彼が少し低い声で「アリナ」と呼ぶたびに、リコは自分が新しい人生をこの最果ての地で歩んでいるのだという奇妙な実感を覚えるのだった。
「大丈夫ですよう。人物画は苦手だから描けないって言ってあります。私は背景や建物なんかの絵を描ことになりましたから。それに、また絵が描けるのが私は嬉しいです」
リコはジルの視線を受け止めながら、宥めるように微笑んだ。
自分の本質的な筆癖や独特のタッチが最も顕著に現れるのは、王都の至る所で出回ってしまった肖像画や姿絵といった「人物画」だ。風景画や神殿の堅牢な建物のデッサン、あるいは漆喰の剥がれた岩肌の修復であれば一般的な職人の手際としてカモフラージュすることは十分に可能だった。何よりも、王都を追われて以来、ずっと握ることのできなかった絵筆を再び持ち、自らの存在意義を確かめることができる機会を、リコは心から切望していたのだ。
「ああもう、それだけではないんです。あそこの神殿には鬼の四肢が封されているともっぱらの噂ですよ?触らぬ神に祟なしというではありませんか。」
ジルは大きなため息をつき、頭を抱えるようにして言った。
このデンバー領を囲む荒々しい山々の奥深く、城塞の裏手に厳かに佇む古い神殿には、遥か古代にこの地を脅かしたとされる強大な「鬼」の四肢が、強固な結界によって封印されている。最果ての荒くれ者である兵士たちでさえ、その神殿の敷地へ足を踏み入れる際は、一様に声を潜めて敬意を払うほどの禁忌の場所なのだ。因みに胴体は王都の郊外にある神殿で封印されており、王族が毎年再封じの儀式を担っている。
「ふふ、ジルさんは心配屋さんですね」
リコはジルのあまりの過保護ぶりに、思わず小さく吹き出してしまった。王都を脱出する際の頼もしかった姿はどこへやら、今の彼はまるで過保護な父親のようだ。
「あなたのことですよ?一体今までに何があったかお忘れですか?いくら心配したって心臓が足りませんよ」
ジルは不満そうに茶に口をつけた。
彼の言う通り、リコが王都の陰謀に巻き込まれ、あわや処刑されそうになった処刑場からの救出劇、そして泥にまみれ、追っ手の目を眩ませながら駆け抜けた逃避行の日々は、思い返すだけでも冷や汗が出るほどの綱渡りだった。ジルの心臓がいくらあっても足りないという言い分にも、当然、一理はあるのだった。
「ありがとうございます。気をつけますから。補修場所も入り口の辺りで奥の禁足地には入らないそうですよ。ね?いいでしょう?」
リコは身を乗り出し、ジルの顔を覗き込むようにして懇願した。
彼女の澄んだアメジストの瞳に見つめられ、ジルはそれ以上強く拒絶する言葉を見つけられないようだった。
「アンジさんもついていくんですか」
少しの沈黙の後、ジルは諦めたようにしかし最も重要な確認を口にした。
「もちろんです」
「まあ、それなら……」
あの歴戦の猛者であり、ギラス将軍の厚い信頼を得ているアンジが影のように付き従うのであれば、万が一の事態が起きてもリコの身の安全は保障されるだろう。
ジルはまだ言いたいことがありそうだったが、お茶と一緒に飲み込んだようだった。ゴクリとジルの喉仏が上下に動く。温かいハーブティーがその喉を通り抜けていくのを、リコがぼんやりと見つめていると、ジルの手が緊張したように動いた。
いつもの冷静な彼らしからぬ、どこかぎこちない手つきで、足元に置いていた大きな革製の鞄を持ち上げ、ゴソゴソと中を漁っている。何か重要な軍事資料でも取り出すのかと思いきや、ジルの大きな手によって鞄の奥から引っ張り出されたのは、およそ戦場の要塞には似つかわしくない、四角いラッピングされた箱だった。
ジルが緊張した面持ちでそれをリコに手渡してくるものだから、ついついリコも何だか緊張してしまう。受け取る手がちょっぴり震えそうになるのを抑えながら、彼女はその箱を見つめた。
「どうぞ、あなたに買ってきたものです」




